1998年2月17日~3月14日
私が美術批評を始めた1980年代後半、わが国の美術に「ニューウェイヴ」と呼ばれる、当時の若手作家の表現傾向があった。一時、東京の貸画廊は、大量に発生した派手な色彩の奇妙に生理的なインスタレーションで、占領されたかの感があった。それは前世代の「もの派」や「ポストもの派」と呼ばれる傾向に対する反抗であり、またバブル経済全盛期の消費社会の謳歌であり、それこそバブリーな蕩尽の表現であった。
林美恵子はその頃「□旧漢字鳥へんに舞」(まいこ)という作家名でインスタレーションを発表していたが、当初の自作を振り返って、前世代の作家が木、石など自然の素材とくすんだ色彩ばかり使っていたので、それに反して人工的な素材と色彩を使いたかった、と言っている。テレビの走査線に映し出されるイメージを見ることで育った世代による、同時代的なリアリティの表現だ、と。確かに初期の作品はそうした意図を明瞭に示すものであった。
しかし彼女は、形式と同時に内容もまったく未知な何かを表わそうとしていたわけではない。そこで意図されていたのは、ある意味では絵画にとって普遍的ともいうべき、光や大気の追及であった。微妙な諧調の光がさまざまな質の空気に浸透しながら空間を満たしていき、あるときは構造化され結節化され、あるときは諸要素が反発拮抗しながら光と空間を織りあげていく、そうした状況がインスタレーションで表わされると同時に、ときにはキャンバス上に描かれる伝統的な形態の絵画によっても追及し直された。インスタレーションと絵画は、相互に浸透し陥入しあい、検証されあう、両立するメディアとされた。
人工的な素材と形式(インスタレーション)によって同時代的なリアリティを表現することと、絵画という形式のなかで普遍的なモティーフを追及すること。普遍性と時代性の交錯、ないしは普遍性と「いま・ここ」の瞬間の生成性との交錯、つまるところはこれこそが、ある作家が創作を行うことの根拠を保証するということになるのであろうが、この二項対立はほかの幾つかの対立項と重なり合っている。普遍性/同時代性という項は絵画/インスタレーションという対立項となり、モダン/アンチ(ポスト)モダンという対立項ともなる。いうまでもなく私たちはこのどちらかの一項だけに加坦し切ることは不可能であるから、これら二項のあいだの振幅と矛盾を生きることこそが創作の誠実さということになる。
いったい表現するとは何なのか。普遍的な事柄をそこで確認するだけなら、あるいは自己の固まった思想や感情を言い表わそうとするだけなら、それらは単なる言い換えでありAはAであるという同語反復にすぎない。私たちは普遍を単なる同語反復におとしめないためにも、同時代性という鎧を着て、あるいは知覚の生成の場を呼びこんで、普遍に反抗しなければならない。AはA’であるというズレを生み出し、その作業のなかで普遍をあらためて輝かせる必要がある。
林のこれまでの仕事をみてきて私の脳裏をよぎるのは、「ニューウェイヴ」の持っていた可能性とは今日にとっていったい何なのか、という問いである。これはまた同時に、つぎつぎと過ぎさっていく潮流や傾向は歴史にとって何の意味を持つのかという問いにもつながっている。ひいては、成功者も無名者も含めて作家の営みとはいったい何なのかという問いにもつながる。美術史に残る一握りの作家の仕事だけでなく、美術と歴史にとって、すべての人のすべての営みは等分に意味を持つと思う。そうでなければ美術そのものは意味を失うであろうし、若い世代、後続の世代が行う反抗の総体的な意味も失われる。絵画という制度が自明のものと化しつつあるなかで、林は再度「絵画的インスタレーション」によって、制度への反抗の身振りのなかから普遍に迫ろうとしている。それは、光の導線の複雑に入りくんだ流れの場を示すことで、世界=空間が生成される知覚の現場を現出させようとする試みである。彼女のこうした身振りは、時代の流れに対する作家の仕事の継続性ということを思わせ、同時に、現在における新たな可能性を孕むものであると私には感じられるのである。