1998年5月29日~6月19日
まだ美術界の悪に染まっていない未知の新人たちを見出すことは、われわれの喜びであり、近藤ゆかもその一例である。
完璧なメタ・アートを除くならば、芸術世界は生活世界に密着している。しかし、そこには何らかの、しかも強力な差異があるはずなのに、われわれがそれを経験することは滅多にない。
作家や批評家、美術史家や学芸員や画商・・・・・・のなかで芸術のわかる者はまず存在しない。これが差異消滅の原因なのであって、未知の新人たちはかかる者たちが形成する芸術状況に左右される必要はまったくないのだ。
われわれは近藤の絵画のなかの線描のみを見ても、それはポストモダンのさなか、花鳥風月への戦術的追想から描かれた装飾的というには、あまりにも平板な線描による抽象的な絵画とは比較できぬ表現力を有していることが了解される。思うに、わが国では形式としての装飾と表現としての装飾の区別すらついていないようだ。
抽象的といえば、われわれの美術は線描中心のそれではない場合は、円や楕円が単に即物的な形―それは具象画の延長にすぎない――として取り上げられる。そして、しかるのちにミニマリズムの概念・方法に従って反復させられ辛じて絵画や彫刻となるのである。
近藤が既成の表現とまったく絶縁しているなどということはあり得ない。しかし、それは形式的な見えにおいてであって、彼女の絵画が実質的に異なる次元―可能性―を示していることは明らかであろう。