1998年7月4日~7月25日
撮影:小松信夫
ある物体が特定の場所(サイト)との関係から生じる作品、すなわちその場所に固有な(スピスィフィック)、移動不可能な作品をサイト・スピスィフィック・アートと呼ぶ。
それはタブロー、イーゼル・ペインティングとは違い物体をほかの場所に移すと作品の内実が変化するものである。
画廊の柱や、壁を構成体と関連づける水本修二の作品も、広い意味でのサイト・スピスィフィック・アートと言える。しかしながら、それが自然や建物を利用するクリストや川俣正と相違するのは、すでに存在しているものとの係わりが稀薄で、それだけ自立的な点にある。水本にあっては、構成体が主体となっていて、柱などはその一部として作用している。
わけてもクリストがわが国で愛されるのは、こけおどしの前衛主義のせいであり、われわれが馴れ親しんできたシュルレアリスムやネオ・ダダの拡張=末裔として際立っているからである。
わが国の現代彫刻はかかるオブジェの流れにあり、非空間的な置物としての形質を有している。その場合、鈍重な形態による固まりとただ手の込んだテクスチュアから成る物体=置物が床に置かれれば新しい彫刻と錯覚されているとすれば、水本の作品はわが国では珍らしく空間性をもつ。
およそ1970年代に制作活動を始めた水本は、当時の無意味な状況芸術に感化されたのち、モダニズムの彫刻の構造に触発されて転身を遂げる。そして、1990年代、ついに己の表現を把持するにいたったように思われる。面的な諸要素が、重量/非重量との緊張関係をもって配置される構成体。それは、すっかり常套句となった同一部分の反復によってもたらされているのではなく、異なった部分の複合によって構成されているものであり、これが空間を支配し、かつ召喚する場面を作り上げている。
作品とその作者、作者の言葉や態度とがいたずらに混同されているわが美術界において、水本の芸術は、正当に評価されるべきである。