1999年4月24日~5月15日
田中信太郎は、十代の時、団体展に出品し受賞した後、これに背を向け読売アンデパンダン展に出品し、次いでもっとも若い世代の一人としてネオ・ダダ・オルガナイザーに参加する。これは、本当の意味での彼の芸術活動の起点であると言えよう。誤解されるのを恐れずに言えば、田中のこの在り方は、わが国の美術界こおいていやしくも美術家たらんとする者にとっては正統なものである。
田中、そして彼の前後、あるいは周辺にいた人々は、いわゆる反モダニズムとして出発した。しかし、わが国の美術では、微かな例を除いてモダニズムは存在しなかったし、存在するはずもなかったのである。田中たちの目前にあったのは、拒絶すべきものとしての、実体としては弱々しく、それゆえにこそ権力となり得たキッチュな、特殊なアカデミィズムである。それは、ただ単に巧みに、さもなければ汚らしく表すことを目的とするものであったが、現在では、これに新しい媒質が導入されて、巧みに、もしくは汚らしく見せるものとなっている。このアカデミィズムは、田中たちの広くダダ的と見なされる傾向よりも、いっそう反モダニズム的だが、そうであるあるならこれに抗した田中たちは、二重の反モダニズムであったと言える。
しかし、田中はかかる美術界との対応に終始したのでは無論なく、なぜなら特殊なアカデミイズムは、本質的には対抗するに値しないからである。田中に要求されていたのは、それ以上に彼を取り巻く世界をも含めていかに芸術的に孤立できるか、ということであったように思われる。田中は優れて感性的な作家であるが、時の傾向は、彼を概念的な形式主義に誘うきらいがあった。すなわち、1960年代後半、とくに1970年代は、当時の主導的な批評家、中原佑介氏とその亜流たちが、空間とその構成要因たる形体、色彩……に無知なためにそれらを先験的に否定するという前衛主義的なポーズを取って、意味なき方法による怪しげな、イラストレイティヴな事物や文書を流布させたのである。付言すれば、この時期、カラー・フィールド・ペインティングに関心が払われることは全くなかったが、それに影響されたカラー・フィールド・スカラプチュアは、三次元という点で受け入れられるという奇妙な現象が見られたのでもある。
田中もこれとは無縁ではなかったが、それに接近すると、芸術にとっては必然の局面である感じることと作ることは二次的な呈示のためのものになってしまう。しかるに、彼の作品はそのような表面的な形式主義を抑圧したときに勝れた表現を生み出したのであり、田中はどのような媒質においてであろうと、感じることと作ることを直截に具現化するほうへと向かったのである。本展は、その志向実現のための長い道程の最新の作例を示すものである。