1988年に開廊した当画廊は本年で13年目を迎え、企画展示も昨年100回を超えた。各キュレーターが2年ずつ委嘱されるかたちで進められ、当初の運営方針のひとつであった「三多摩地区での新たな文化運動の拠点」として役割を担ってきた。画廊が設置された時代は、いささかの経済好況を背景として美術状況が活性化していたといえる。そういった中での上記の「三多摩地区構想」は、全体の状況を先取りしたかたちで推進され、画期的なものとして評価されるはずである。
銀座・日本橋を中心とした画廊地勢が崩れていき、この地域も含めて地図が拡大していったのは90年代の半ばであった。この時代は当画廊も含めて、非営利(ノンプロフィット)ギャラリーの活動が盛んだったが、近来ではその数を極端に減らし、また主流といえた貸画 廊のみならず商業画廊の閉鎖が相次いでいるのが現状だ。いっぽう、画廊発表の意欲に燃える若手作家の数は減るどころか、ますます多くなっている。そのことは当画廊のキュレーターを担当する者としてつねづね実感させられるところである。
また大きな情勢としては、既成の画廊の特色がなくなってきていることと相即的に、アートシーンを引っ張っていくムーヴメントが退潮し、市場もジャーナリズムもその話題作りに苦労していることも事実である。しかし、当画廊の開設初心は、学校法人の展示施設として、そういった市場原理と距離をとり、表現の多様さを認めつつ、キュレーターの独自な視点によって、作家たちのと どまるところを知らない表現欲望を掬い取り、また一定の受容層の訴えに応えるものとしてあまることを忘れてはならない。
広い意味での美術作品をめぐる批評の回路の一端を、当画廊は役割として担ってきた。現在を知る限り、まったくの非営利画廊として年間を通じて活動しているのは、東京・関東圏では当画廊以外、かわさきIBM市民文化ギャラリー(神奈川・川崎市)だけであり、大きな潮流を見いだせない現代アートシーンにおいては、貴重な存在である。その社会的評価はじつに高いといえる。新世紀に変わりその新たな気運の下に、現代美術の水脈から眼を離さず、複数のキュレーターの議論によって模索・提案し ていく機関として、当画廊の企画に関わっていく所存である。
1951年、仙台市生まれ。美術評論家。武蔵野美術短期大学デザイン科商業デザイン専攻卒業。70年代半ばより出版編集に携わり、’80年代半ばより美術評論を始める。1994~1996年、ギャラリーαM、キュレーター。最近の論文に、「戦争の エポック 芸術のメルクマール」(『インターコミュニケーション』第32号、2000年)、「よみがえったル・コルビュジェ 国立西洋美術館の改装をめぐって」(月刊『東京人』’99年10月号)著書に『中井正一とその時代』青弓社(2000年)
(※略歴は2000年当時)
最近の美術作品を見ていて、作家の時代感覚の鋭さとでもいうべきものを、強く感じる。ただそれは、裏を返せば、時流を読み、それにふさわしい戦略を立て、そこから作品が作られるということでもある(本来アーティストの「時代を先取りする能力」など、事後的にしかわかるものではない)。もちろん、(アートではなく)アーティストが「生き残る」ためにある程度の戦略が必要だという考えは、理解できる。それでもおそらく最初に立てた戦略から作品が一歩もでてこない、その種のものは結局失望しかもたらさない。
もちろんわたしたちは、それら戦略的な作品を見るたびに、いろいろなことを理解するだろう。たとえばこれまでの美術の見方を変えなければいけない、といったことを――とはいえ、なんのために?アーティストを生き残らせるために?いずれにせよいまこういうことを考えさせてくれる作品は、タイムリーに妥当な作品であることはたしかだ。
けれどそれらは、語の本来の意味で「享受(エンジョイ)」するに値するだろうか。わたしたちはそれを見て、そこに込められた主張がタイムリーだとか妥当だとかいうことを、ただ理解するだけではないのか。
いま埋もれがちな、理解は困難だけれど享受に値する作品。ゲスト・キュレーターのひとりとして、すこしでもそうした作品を、そしてまだキャリアが浅く、発表の機会に恵まれないなかでそうした作品を作ろうとしているアーティストを、紹介したい。そこでは稚評も、ひとりでも多くの鑑賞者が、展示された作品をじゅうぶんに享受する、その一助となるべく執筆される。
1969年、東京都生まれ。美術評論家。東京芸術大学大学院後期博士課程満期退学。
論文に、「同一性 のかたち--ドナルド・ジャッドの芸術について」(『美学』180号、’94年)、「描くことの半透性:ゲアハルト・リヒターをめぐって」(『カリスタ』 第4号、東京芸術大学美学研究室編、’97年)など。
(※略歴は2000年当時)
バブルが崩壊した当初、泡沫景気の恩恵に浴することの少なかった現代美術は、その打撃もさして被らないだろうといった楽観 的見通しすら聞かれたが、とりわけ90年代半ば以降、公立美術館の予算削減が相次いだり、街の画廊の活動が目に見えて鈍化するにおよんで、この見通しがあ まりにも甘かったことが明らかになった。とはいえ、この間に〔80年代末頃からか〕、現代美術を取り巻く社会環境そのものがかつてとは比較にならないほど 多様化した点は、永い目でみればその基盤の強化にもつながる歓迎すべき要因といえるかもしれない。ギャラリーαMのような、美術館でも商業画廊でもない非 営利の展示施設の活動もその一つであり、その役割は今後ますます大きくなるだろう。
さて、企画を担当するにあたっては、同ギャラリーの非営利施設たる利点を生かして、社会的知名度や活動歴の長短などにとらわれずに、見るべき作家の発見と再発見に努めたい。とはいえ、カメラ、コンピューター、ヴィデ オといった機器が、従来の絵具や石膏等とならぶ表現手段となり、技法、展示方式、様式、主題のどれをとっても複雑化と多極化をきわめる今日、一人の人間の 眼なり問題意識なりのとどく範囲はあまりにも限られている。各展覧会の人選や論評の全責任を担当キュレーターがもつのは当然であるが、3人のキュレーターで折にふれて議論を重ね、16回の展覧会の全体構成をたえず念頭におきながら、企画にあたることにしたい。
東京国立近代美術館美術課長。1955年、東京都生まれ。京都大学大学院修士課程修了。
主な論文に、「カンディンスキーの芸術理論における絵画の形式と内容の問題」(『芸術の理論と歴史』思文閣出版、’90年)、翻訳に、『カンディンスキー--抽象絵画 と神秘思想』S.リングボム著、平凡社、’95年)など。手がけた展覧会に「現代美術への視点--色彩とモノクローム」展、「カンディンスキー」展、「村岡三郎」展など。
(※略歴は2000年当時)