2004年10月18日(月)~10月27日(水)
写真:無題 2003 キャンバス、油彩 145.5×112.0cm (C)Izumi Kato
その絵は海の底でうごめく原初の生命を描いているように見えた。ヒトの形はしているが、身体が膜で覆われていたり、鰓のようなものが何故か突き出ていたりする。顔に付いているふたつの目は離れていて、何を見ているのか、何も見ていないのか。暗い画面はどこか懐かしく、孤独だが寂寥感はない。背景には水、あるいは空気のようなものが描かれ、ときに単体で、ときに複数で描かれるヒトの姿。
加藤泉は具象画を描く。「良い具象には良い抽象の部分が含まれる」と言う。
「部分を追求すると抽象になる。自分はもっと情報の多い絵としての具象を目指している」と。具象と抽象の関係を今までになくクリアに言い当てる加藤の言葉に感嘆しながら、この画家が画家になるに至った道のりを聞かずにはいられなかった。
もともとアーティストを目指していたわけではなく、美大に行っても絵を描いて生きる道にすんなりとは入らなかった。紆余曲折の末に「一人でできて、自分で責任を取れること」をやろうと思い、30歳くらいのときから絵を描くようになった。いわば消去法で画家になる道を選択したと言うのだが、その過程で得たさまざまな経験や思いも含めて、加藤が画家となるために必要な道のりだったという気がする。
「絵と私の関係が対等であり、かつ、私にとって新鮮であるよう、持っているもの全てを使って最善を尽くすのです。(※)」
この加藤の言葉が、彼の制作のすべてを物語っていると思う。人間の姿は究極の具象画ではないだろうか。加藤は新鮮に、そして大切に思う生命の姿を描くことに最善をつくす。描かれるものも、描く自分も、国籍や性別や年齢、その他説明する要素が一切ない絵を描こうとする。そのアノニマスな、人類いやすべての生命を具象する加藤の絵に、私たちは魂の深いところを揺さぶられるのだ。
最近は、彫刻作品も制作し、ペインティングと彫刻を組み合わせた展示をすることが多くなっている。「彫刻は絵よりも、思っていることをかたちにしやすい」ので、絵と同時進行で制作しているという。絵と同様、ヒトのかたちをした彫刻は、そのアンバランスさがアフリカのプリミティブ・アートを思い起こさせ、すぐれて魅力的なのだが、今回の個展はペインティングのみの展示で空間を構成する。
絶えず「対等で新鮮な関係」でつくり出す作品は、そのときどきの加藤の生きるさまを反映して変化を遂げている。作品を見る私たちも、作品と対等に新鮮に、向き合いたいと思う。そこに私たち一人ひとりの姿が反映されているはずだから。
※引用文献:『ZONE不穏な時代の透視者たち』展覧会カタログ(2003年府中市美術館)