αMプロジェクト2004 vol.6 佐藤万絵子



2004年10月28日(金)~11月6日(土)

写真:2003 Space Kobo&Tomo 紙、オイルスティック、デグス、布靴 撮影:柳場大 (C)Maeko Sato


耳を澄ます


児島やよい

彼女は「絵のなか」に入りたいと言う。概念としてではなく、物質的に、絵そのものになりたいというのである。紙の繊維の中にもぐっていきたい。絵が描かれるために身をすり減らすオイルバーやクレヨンがうらやましい。絵の完成とともに、その痕跡を留めた紙の殻だけになったオイルバーの姿に、憧れる。

もちろん、絵は人がつくり出すもので、彼女の絵は彼女がいなければ出現しない。だから絵は作者の存在を代弁するものとなる。絵を見る人は、その絵の中に作者を想像し、それでじゅうぶんと思うのがふつうだ。物質的にも絵の中に入りたいと願うことは、鏡の中に入りたいと願うのと同様、叶わない、理不尽なことに思える。

しかし、それを切に願いながら制作を続ける佐藤万絵子の苦しい格闘を目のあたりにすると、簡単に「それは不可能」と済ますことができないような気持ちになる。絵を描く自分と、描かれた絵との距離。そしてその絵を見る人との絶対的な距離を埋める。抽象的、概念的なところからでなく、具体的、物質的な試みをすることは、佐藤が絵を描き続けていく上で必要不可欠な作業なのだ。たとえそれが試みに終わったとしても。

何かを絵に描こうとしているのではない、絵を描こうとしている。紙に顔をくっつけるようにして、彼女は描き続ける。彼女の絵ははみだしていく、床にも、壁にも。オイルバーのグリーンとブルーが、彼女の体液のように染み出し、白を浸食する。絵を描いているとき、彼女は耳を澄ましている。紙とオイルバーが擦れあい、絵になっていく音に。自分の身体や名前が消えて、ただ描くための物質となるように。そうしてオイルバーと等しくなれたと感じる一瞬に、絵のなかに入れた気がするのだ、という。「自分が世の中で生活している時に握っているものを、無理矢理手を開かされ剥がされていくようで、本当にこわくなる。」それはあまりにも追い詰められた、危険な作業のように私には思われる。
佐藤はこのような息詰まる制作を公開することもあるが、決してパフォーマンスとしてやっているのではない。展覧会が始まっても、絵のなかに存在しようとする試みを止められないのだ。

今回は、自然光とスライドプロジェクターの光だけで、絵と、佐藤の気配を見せるインスタレーションとなる。彼女の絵は、時間帯によっては光を得られず、目を凝らしても見るのが難しいかもしれない。物質は、光がなければ見ることができない。が、彼女の絵はそこに存在するのだ。彼女の、絵のなかに入ろうとする毎夜の格闘を、耳を澄まして、見てほしい。