『現れの空間』 vol.1 丹羽陽太郎

2008年4月14日(月)~4月26日(土)


photo:展示風景(art space kimura ASK?) 撮影:柳葉大


街を歩いていても、休日を家で過ごしていても、私たちは物に囲まれて生きている。洋服や書物、あるいは玩具等のように愛好するための対象ばかりではなく、看板や電柱、棚や床材に使われている素材にいたるまで無数の物がこの「世界」を形作っている。そして、それらはいちいち数え上げられることなく、ほとんど無意識のうちにあるべきところにおさまっているとされている。あるいはこう言うべきかもしれない。そのように感じることが可能な限りで、「世界」は秩序を保っている、と。少し美術史の系譜を振り返ってみれば、この関係性の網の目にほつれやズレを生じさせる表現の数々が、丹羽陽太郎の作品の前にはあるとも言える。
《リーゼンベーレンクラウIII》(2007年)に使われている、傾きながら交錯するプレキシガラスに付着した玉葱の皮は、すぐにそれとは分からない。見慣れた工業製品に描かれたドローイングのようである。くるくると湾曲した線の軽やかさが、ごくありふれた野菜という私たちの認識による呪縛から跳躍をしている。しかし、どこかでこれらの物たちは眺められるのを待っているかのようでもある。その点で、私には《庭園zK》(2003年)はもっと謎めいた空間のように感じられる。金属の格子のような物体が天井と床の間にはめ込まれ、その向こうにどこにでもある居間の照明器具が床ぎりぎりまで降ろされている。そして床一面にはカーテン素材がビニールの下に敷かれている。一瞬、眩暈をおぼえるかもしれないが、それらは通常とは別の秩序を整然と保っているような感覚がないだろうか。
これらのモノは、レディメイドの文脈によって作品として鎮座しているのとはおそらく違う。大量生産品が美術作品の展示空間に持ち込まれるといった、モノと認識をめぐる関係性よりも、知覚へのもっと直接的な働きかけのほうが前面に出てきている。《Umlauf》(2007年)には、居住空間に展示された作品であるため、それが顕著に現れているかもしれない。二つに割られ、再度くっつけられた如雨露(じょうろ)が部屋の入り口をはいるとぶら下がっている。そこから天井に張り巡らされた水道管をたどるようにして奥へと行くと、不可解な場所に扉があり、反対側に鉢植えの植物と透明の模型が組み合わさったかたまりがある。視線の移動、狭い部屋、自然光と床に置かれた蛍光灯の光が、鑑賞者の身体に働きかける。なじみのあるはずの空間なのに、どこか落ち着かない雰囲気があるかもしれない。
丹羽の作品は、モノと私たちの間に、何らかの気づきや別の文脈による括弧入れを作り出すよりも、こうした意識の散漫さをつくりだす。集中した意識は、モノとそれを眺める主体双方の自己同一性を作りあげる。見えない境界線によって、あちら側とこちら側が明確に分け隔てられる。そうして役割や属性が決定されていく。散漫さによってモノが不安定で、曖昧なままにされる状態が丹羽の作品には見られる。揺れ動くものが使われたり、穴が開いているか透明で複数の層が重なり合って眺められることが多いのも特徴であり、見る者とモノが参加する「世界」は安定しない。私たちは、その非決定性のただなかに不安ながらも置かれると、モノとの呼応関係が新鮮なものとしてたちあがってくるように感じられるだろう。その時、いつものように、あるべき場所をモノに与えてしまってはいけない。見るという経験によって、モノ=他者が自己の境界線を変更するような出来事への寛容さが生じることも、もしかしたら可能かもしれないのだから。

住友文彦