『現れの空間』 vol.3 岡村陽子

2008年9月24日(水)~10月11日(土)

photo:展示風景(art space kimura ASK?)撮影:柳葉大


机の上に無造作に置かれた一冊の文庫本は、ひとりの著作者が綴った言葉が印刷された紙の束である。それを私たちは多くの場合、著作者の名前、または書物の題名によって名指す。そうすると、薄茶の紙の束はすぐに、頭の中にある知識の断片との間に連続、あるいは断絶の関係に置かれる。しかし、同時に別の眺められかたの可能性も秘めている。久しぶりにその文庫本を棚から引き抜くきっかけを与えた友人の言葉の含意をもう一度考え直させることもあれば、カバーに付着したコーヒーの染みがかつて住んだ部屋のソファに体を沈めたときの感覚を思い起こさせることもある。
ひとつのモノが、こうして同時に複数の潜在する相貌を持つことを発見するのは私に悦びに近い感覚をもたらす。それを覆う記号の殻はなかなか強固であり、滲み出すようにして外部と結びつき、伸縮自由な手足を持って自由な運動をはじめるように感じられると、眼の前にあるモノは、そこにはない別のモノや記憶と関連付けられ、意味づけや解釈を変容させていくことができる。
岡村陽子が手にするビニール、紙、木の枝やビーズは物質的なモノとしての相貌を失わないまま、ほかのモノと結びつくことで生み出す運動によって、複数の錯綜する線がうっすらと現れては消えていく。雑多なイメージが圧縮、置換されているように、あるモノが別のモノと重なり合う。
これらをかたちづくり、配置することで「世界を認識する」ことを望む作家の行為は、夜空に無数輝く星の運行を丹念に観察し、そこに神話のイメージを与えた古代人の想像力に近いのだろうか。神話や宗教が、言葉やイメージの力によって編み上げる世界の姿は構築的であり、どこかにあるはずの〈世界〉の似姿といえる。そこには、予言としての終末があり、救済がある。
《World’s breathing》(2007)では黒いビニールの襞が、稜線のごとく視線を導くのだが、それはほとんど崩れ落ちるかのようにして何らかの輪郭をつくりあげない。複数の素材が重なり合い、連続する有機的なかたちに、かろうじて自然の風景が立ち上がるようにも見えるかもしれない。また、しばしば素材が光沢を持ち、その鈍い光の放射運動がかたちを固定させないような効果をもたらしている。絶えまなく揺れ動くような空間がある。そこには、心理的な繊細さが表されているのではないし、ましては現代社会の壊れやすさが表現されているのでもおそらくない。ひとつひとつのモノは場所を与えながらも、非決定的な状態のままである。
したがって、一見無造作に置かれたモノたちは、星座に与えられた世界を把握するためのイメージや物語とまったく同じではない。彼女が慎重にモノたちを配置する所作を後押しするものには、古代人がおこなった自然とイメージの重ね合わせに近い、未知の〈世界〉へと向かおうとする想像力の飛躍があるかもしれない。だが、それらを辿ろうとするまなざしの主体はけっして安定的な場に置かれていないのだ。
眺めまわしていると、どこにでもあるような素材が剥き出しになっており、作家の作り出す想像の風景とのあいだに飛躍と先に述べたような程の間隙が生じ、まなざしは素早く繰り返し往復する。そこに立ち現れている〈世界〉はきっと、どこか別の場所にある、のではなく、ここに、私たちの視線と動きが交錯するまっただなかにある。

住友文彦

世界を理解するために構築してきたもの、そして自分の存在を確認するため意味を与えてきたもの。様相は変われどある普遍性をともない生み出され続けるこれらは世界の中で幾層にも重なり合い、時を経てより複雑になっていく。私はこの世界の状態を包括的に認識し、そしてさらにその先へ進みたい。

岡村陽子