『現れの空間』 vol.4 橋本聡

2008年11月18日(火)~11月29日(土)

photo:展示風景(art space kimura ASK?)撮影:柳葉大


あるべき物が、その場所にないと感じるとき、連続した時間の流れからふと切り離されるような感覚をおぼえないだろうか。無意識のうちに、おそらく重層的にいくつもの物事が同時に知覚され、思考されている日常の行為の途中で、突然に自分の記憶の糸が途切れて、小さな穴の中に放り込まれてしまうような出来事である。例えば何かに意識を集中させる場合にも、日常の知覚や思考から切り離される瞬間が現れるが、それよりももっと突然起きたように感じ、喪失感は不安をともなう。
あまり心地のよくないこうした経験の問題は、「ない」という欠如の事態ではなく、「あるべき」というその前提にあるのかもしれない。この了解に高い信憑性があると、不安の度合いも大きくなる。そのため、「あるべき」世界を確固と持っていると、了解事項からずれていくことも多くなる。
《Wake up. Black. Bear.》というパフォーマンスと呼ぶべきかもしれない橋本の作品では、まず展示スペースに入り、そこに立ち止まっているだけで空間の奥行きが歪むように感じる。天井まで届いている大きな壁は固定されておらず、ゆっくりと動いていた。それは、私の居る位置に気付いてか、気付かずか、どんどん押し迫ってくる。映像が壁に投影されているので眺めていたいのだが、投影距離が変わってしまうので画面が小さくなっていく。動く壁はやがて完全に入り口を塞ぐので、一時的に観客を軟禁することにもなる。壁の反対側には、仮設的に作られた階段があって、そこから足が鎖で結び付けられている男がひとり黙って動いている。彼は首にも鎖がぶらさがっていて、それは壁と結び付けられていた。まるで囚人のように拘束されたまま、壁を動かしたり、壁の穴から反対側を覗いたりしている。そうかと思えば、突然訪問者に対して飲み物をふるまったりして、親密な領域に入り込んでくることもある。そう、一連の行動は領域侵犯的なものにみえるのである。制約を負っているために不自由にみえながら、自由に気ままにふるまうことや、鑑賞者に居心地の悪さを与えながらも、親密さを演出するなど、了解されていたはずの境界線はつねに書き換えられる。
しかし、作者と鑑賞者との間で遂行される領域侵犯という点が強調されるべきものではない。入り口側から壁に向かって投影されていた映像は、河川敷の土を掘り、そこに自分が埋まる、という過程を撮影したものだった。これには積極的な他者との関わり合いはない。人々の意識にとまるかどうかも分からず、ひそかに繰り返される自然の循環に関わる名も知れない植物の営みのようにもみえる。
この展示空間のなかで眼にしている一連の出来事について了解できる事柄があまりに少ないまま、私たちは変化し続ける対象を捉えようとする―そして、その解読のための試みは未完のままに終わる。居場所を定められないまま、物事が流動化しているような状態の空間が現れている。そのために領域化され安定した表象空間ではなく、持続する時間のほうを生きるような経験が残る。それは一定の濃度を保つ持続ではなく、意識の流れが時々窪みにはまって渦を巻くこともあれば、ふと途切れるようなこともあるが、存在の確からしさよりも変化の様子を辿っている。
世界を結び付けていたものがほつれてしまっているように、物は納まるべきところに納まっていない。だから、意識の連続は途切れ、空中に投げ出され、また戻ってくる。現出している出来事に認識が追いつかないと言ってもいい。もしかしたら、この遅れのなかでしか、私たちは物や出来事と生々しく出会えないのではないだろうか。

住友文彦