現われの空間 vol.5
vol.5 Taiyo Kimura + Pol Malo
2009年1月13日(火)~1月24日(土)
January 13, 2009(Tue.) -January 24, 2009(Sat.)
11:30–19:00(土曜日は17:00まで)
日休 入場無料
11:30–19:00(Sat.: 11:30–17:00)
Closed on Sun.
Entrance Free
ゲストキュレーター:住友文彦
Guest Curator: Fumihiko Sumitomo
ギャラリートーク:1月17日(土)17:00–18:00
木村太陽×ポル・マロ×住友文彦
レセプション:1月17日(土)18:00–19:00
Gallery Talk: January 17(Sat.) 17:00–18:00
Reception: January 17(Sat.) 18:00–19:00
Taiyo Kimura × Pol Malo × Fumihiko Sumitomo
(上)木村太陽 展示風景(art space kimura ASK?)|撮影:柳葉大 (下)ポル・マロ 展示風景(art space kimura ASK?)|撮影:柳葉大
<木村太陽>
20世紀の美術は、あらゆる形やメディアについての美的価値に平等性を求めてきた。これは、何でもあり、を実践するのではなくて、それまで注意を向けられなかった対象を視覚的表現として認めていく働きかけをおこなうことである。そうでなければ、伝統的な価値判断や多数性へ傾斜していくマスメディアが押し付ける価値観が支配的になっていくからである。
なかでも、合理性では説明できないような表現を求めていく傾向は強く、直接感覚へ訴えかけるような触覚性の強い表現は多くの芸術家の関心を集めてきた。そして、それはしばしば下等(ロー)なものとして退けられてきたものをり込んでいくようになる。
おぞましいものに惹きつけられる私たちの感性を、まるで計算されたかのように軽妙に刺激する木村太陽はこうした流れのなかにあって、かつ忘れられない独特の表現をつくりあげている。馬鹿馬鹿しいほど下劣(ロー)なものに苦笑しながら、それに魅力を感じている鑑賞者に自らを眺める鏡を突きつけるようなアイロニーの強い作品もあれば、作品を眺める行為自体が仕掛けられたものだとどこかで気付くような作品もある。ノートの切れ端に描かれたようなドローイングも、身体器官の一部のようにみえるものや小さな有機体が反復されるものなどが描かれ、自らに帰属するかもしれないが見ないで過ごしているような対象が描かれている。ただハイとローの落差が魅力を持っているのではなくて、その視覚経験にともなって鑑賞者が自分の位置を認識するように仕向けられていることが効果的に働いているような気がする。
これらは、見るという行為が主体を形作る作用に働きかけをおこなう。それまでの価値判断によって安定的な位置を確保してきた主体が、おぞましいものを眼の前にして揺さぶられる。ここに価値の転換がもたらされるラディカルさがある。
そして、主体が外部との境界線を確定できないほど溶解していくような経験になるときに、恍惚となるような感覚が生じることもある。物事の価値が不安定に感じられ、ある種の揺さぶりがあると、そこから他者とのあいだに共同性さえも開かれていくのではないだろうか。作品を見て思わずに一人でにやりとした後には、ほかの人の表情をのぞきこみたくなる。もちろん、実際にそのように確認をおこなわなくても、思いがけず到来する主体の危機を感じながらも自己を確立させるための境界線を他者へと開いていく経験が待っていて、それが木村の作品をみる快楽になっているのである。
<ポル・マロ>
少し前になるが、海が近い運河に浮かべられたバージ船のなかでポル・マロの作品を見たことがあった。足元をコンクリートで固められた陸地から桟橋をそろそろと渡り、船のなかに降りていくと、わずかに海面に揺れる心地よい空間が現れた。木材を簡単に組んで壁と天井を作りそこに青い布が垂れていて、白い線が横に走っている。小さな船が描かれているので水平線のようでもあれば、あるいは空を横切る飛行機雲のようにもみえる。陸からほんの少し離れるだけで得られる解放感のような心地と、大きく余白を残しながら描かれている風景のような作品が見る者を優しい気持ちにさせるような展示だった。
彼の平面作品では、ひとつの線や色が確かに選ばれてそこにあるのだが、描かれている空間やものが連続していき関係性が重層的にみえてくるため、まるでそこにはない線や色とも共存しているような感覚をおぼえる。見ていると、海の上でたゆたう感覚にも似た揺らぎがある。これは、日常生活で使うような小物や使用済みの残物を即興的に配置したような作品においても共通している。見ているうちに意識されにくい対象が、微妙なバランスによって現実感をつくりあげていることに私たちは少しずつ気付く。偶然と言ってもいいような出来事の連鎖にどうやって意識が反応していくのかを実験しているような作品にも見える。こうした経験的な意識への働きかけには、一般的には音を使う表現が効果的だが、彼のサウンド・パフォーマンスにもこうした感覚が満ち溢れている。実際ポルは、小さなレーベルを主宰していたほど、音に対する関心が強い。
それがここ最近は、キャンバスだけではなく裁縫に使うような様々な質感を持つ布地に自由な感覚に溢れた絵を描いている。絵画なので本来は時間の流れはないのだがこうした揺れが感じられ、特定の何かに解釈しきれない余白が残され続けるのである。どこかゆるやかなリズムが流れているようにも感じられる。その運動が、前述したように普段は意識の対象になりづらいものをとらえ、偶然にあふれた世の中の複数性を照らし出しているのではないだろうか。
住友文彦
ギャラリートーク 木村太陽 × ポル・マロ × 住友文彦
https://gallery-alpham.com/text/20080501/