『絵画、それを愛と呼ぶことにしよう』 vol.4 浅見貴子

2012年8月18日(土)~9日15日(土)


photo:「蘇芳桜 2011-12」 2011-12, 墨、顔料・雲肌麻紙、パネル91×72.7cm


指揮者としての画家

保坂健二朗

裏から描かれる絵には、独特の魅力がある。たとえばカンディンスキーや清宮質文のガラス絵がそうだ。そこには、表面になにも描かれていないという徹底的な平面性がある。また、一番手前にあるモチーフを最初に描かなければならないことから、解体と再構築という相反する方向性が同居している。むろんそれらの特質は版画にもあるけれど、なんといってもガラス絵には、絵画に特有の唯一性がある。
和紙の裏面から描かれる浅見貴子の絵にもまた、そうしたガラス絵的な特質があると言ってよいだろう。しかしもちろん違いはある。和紙を使っている彼女の場合、作品をそれなりに大きくできるし、そのテクスチャーは柔らかな肌理を備えている。観る者の身体感覚を超えた 大きさを備えられて、平面的なのにテクスチャーは排除されていない画面を持っている……
つまりこういうことだ。浅見の絵は、一瞥した時の印象、すなわち、「墨で樹木を描いた伝統的な日本画」という形容をはるかに超えた形式性を備えているのだ。
この試みを彼女が遂行できるのは、なぜか。
ひとつは、樹というモチーフに作品を委ねているからだろう。浅見が描くのは、秩父の自宅の庭にある、なんの変哲もない松や梅や柿などだ。枝ぶりが、光や風との交歓の結果であるとするならば、それが見せる構造ほど、理にかなったものはない。しかもだ。樹木には全体的な形式性がありながら、松や梅や柿といった サブカテゴリーによって枝ぶりのあり方は随分と異なる。さらに、同じ種であったとしても個々の樹によって違いがある。個別の個性と全体的な特性とが、ひとつの樹の中に共存している。個にして全、全にして個。樹の枝ぶりが見せる、小さいけれど複雑な世界を信じて頼れば、絵画はもっと視覚に対して純粋になれる。そう浅見は直覚している。
もうひとつの理由は、浅見が、樹という自然をモチーフに選ぶのには、確固たる目的がある(と思える)からだ。それはつまり、いかにして人間の精神を乗り越えるか、である。ルートヴィヒ・クラーゲスの言葉を思い出そう。リズムの本質を捉えようとした彼は、「精神のない自然には模造も反復もない」とみなしていた。そのように言い切れるのは、クラーゲスが、人間に代表される精神的活動と自然に代表される無意識的生命現象とはおよそ異なると考えているからであった。そして彼は、よく知られているように、前者に拍子(Takt)を、後者にリズム(Rhythmus)を対応させた。そして、優れた音楽がそうであるように(あるいは、電車に乗ったときのあの線路の音がそうであるように)、リズムと拍子は排他的な関係にあるのではもちろんなくて、拍子がリズムを救い強調することもあるとした。
おそらくは、浅見の絵画もそのようなものとしてある。自然が見せるひそかなリズムに対して、どのように人間の拍子を重ね合わせれば、そのリズムがより生き生きとしたものになるのか。言ってみれば、浅見貴子において画家は、指揮者のような存在なのである。

▊浅見貴子 あざみ・たかこ▊
1964年埼玉県生まれ。1988年多摩美術大学美術学部絵画科日本画専攻卒業。2008年文化庁新進芸術家海外研修員としてISCP(NY)で個展やレクチャー開催。主な個展に、2011年「光合成」(アートフロントギャラリー、東京)、2009年ポーラ美術振興財団国際交流助成を受け「Viewing Light」(M.Y. Art Prospects、NY)。滞在制作と発表に、2010年「Art Omi 2010」(OmiInternational Arts Center、NY)と「ARKO 2010 浅見貴子」(大原美術館、岡山)、2009年フリーマンフェローシップの助成でVermont Studio Center(アメリカ)。近年のグループ展に、 2010年「花鳥画の現在」(茨城県天心記念五浦美術館)、2009年「DOMANI 明日展」(国立新美術館、東京)、2008年「Abstraction in 10 Ways」(New Jersey City University、アメリカ) など。
http://www.takakoazami.com

(左)「梅 1101」 2011, 墨、顔料・パネル、雲肌麻紙, 235×280cm,
(中)「現代の水墨画2009 水墨表現の現在地点」 2009年展示風景会場:練馬区立美術館 撮影:長塚秀人
(右)「梅に楓図」 2009, 墨,、顔料・パネル、白麻紙, 265×200cm,