絵画、それを愛と呼ぶことにしよう vol.7
Crazy for Painting vol. 7 Kae Masuda
2012年12月1日(土)~2013年1月12日(土)
[冬季休廊:12/23-1/7]
December 1, 2012(Sat.) - January 12, 2013(Sat.)
[Winter Holidays: 12/23-1/7]
11:00〜19:00
日月祝休 入場無料
11:00-19:00
Closed on Sun., Mon., Holidays.
Entrance Free
ゲストキュレーター:保坂健二朗(東京国立近代美術館主任研究員)
Guest Curator: Kenjiro Hosaka (Curator, National Museum of Modern Art, Tokyo)
アーティストトーク:12月1日(土)17:00–18:00
増田佳江×保坂健二朗
オープニングパーティー:12月1日(土)18:00–
Artist Talk: December 1(Sat.) 17:00–18:00
Kae Masuda × Kenjiro Hosaka
Opening party: December 1(Sat.) 18:00–
《日時計》2012年|油彩・キャンバス|227.3×181.8cm
増田の絵の前に立った者は、文字通り動けなくなることだろう。ショックを受けるからではない。見続けることをやめられなくなるのだ。なぜそうなるのか。
ヒントは、増田がしばしばモチーフに選ぶ「モザイク」にある。言うまでもなくそれは、ビザンティンにおいて隆盛を極めた、稚拙さと崇高さをあわせ持つ芸術の名前であるが、それだけでなく、19世紀末から20世紀初頭の科学的心理学の黎明期、すなわち要素主義的な考え方が優勢であった時代に、「モザイク・テーゼ」という言い方で使われてもいた。つまり、「全体は並列的に与えられた要素あるいは部分の総和である」とみなすヴントの考え方を象徴するべく、伝統的な芸術の名前が召喚されたのである。
誰が名づけたか知らないが、この命名は、長い歴史を持つモザイクに対してちょっと失礼ではないか。確かにモザイクは、細かい無数のパーツ(要素・部分)によって構成されている。だが、制作の際には必ず隙間が生じる。部分を増やせば増やすほど、隙間 がわずかであっても増える。事後的に増えるこの「隙間」を、「部分」と並列的に考えるのは不可能である。モザイクは部分の総和では決してない。そして増田 はその事実をよくわかっている。と同時に、心理学の歩みと同じように、モザイクを(あるいは自らの絵画を)、「部分の総和に還元されないなにものか」にしようとする。つまりは、「ゲシュタルト」(Gestalt)に。
とここまでは、「普通」である。優れた絵画は皆、あるいは優れた画家は皆、このゲシュタルト質の成立を目指しているからだ。その中で、増田は、さらに、ゲシュタルトの本質に立ち入ろうとしている点で興味深い。彼女は、時間の 問題に(結果的かもしれないが)取り組んでいるのだ。
医学者のヴァイツゼッカーが「ゲシュタルトと時間」の中で次のように言っていたことを思い出そう。「ゲシュタルトが時間の内で成立し、持続するのでなく、逆にゲシュタルトの内で時間が、始まりと終わり、持続と消滅として、成立し、消え去る」。つまり彼は、ゲシュタルトの内で時間が生成すると、ゲシュタルトによって「過去へ向かう逆向きの時間序列と未来へ向かう前向きの時間序列が成立し、そうすることでひとつの生物的/生命的行為の時間性が形成される」と言うのだ。
もちろんこの言い方は、「見る人」が捨象されてしまっている以上、いささか詭弁である。そして言うまでもなく、実際、ゲシュタルトをめぐるその後の研究は、メルロ=ポンティのような、見る人という行為主体と世界との関係を全体論的に捉える方向へと進んでいった。しかし私たちは、ここでひとつの「事実」を 認めるべきではないか?すくなくとも増田の絵の前に立つと、私たちの知覚からは独立したところで、ゲシュタルトがなぜか成立しているように思えはしないか。人間の知覚を離れたところで「部分の総和に還元されないなにものか」が生まれていて、そしてその中で時間が生まれているように、感じられはしないか。増田の絵を見る時のあの独特の「距離感」は、そこに線遠近法があまり見られないことだけでなく、ここにも由来していると私は思う。
ヴァイツゼッカーがたびたび依拠するゲーテは、次のように言っていた。「無彩色の絵やこれに類似した芸術作品で巧みに取り扱われた明暗を見てわれわれが感ずる非常に快適な気分は、主として、一つの全体を同時に知覚するところから生ずると思われる。この全体は通常、目という器官によって単に継起的に、生み出されるというよりはむしろ探し求められ、いかにうまくいっても、けっして固定されえないのである。」全体は、探し求められる。ここに見られる「矛盾」を真実として受け入れる勇気が、増田の絵画を見る際に、ひいては芸術を前にする際には、重要なのである。
参考文献 ヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼッカー『生命と主体——ゲシュタルトと時間/アノニューマ』木村敏訳、人文書院、1995年。
▊増田佳江 ますだ・かえ▊
1978年京都府生まれ。2004年京都市立芸術大学大学院美術科絵画専攻修了。主な個展に2009年「増田佳江 展(MIZUHOOSHIROギャラリー、鹿児島)、2007年「warp and woof」(ギャラリー小柳、東京)、2004年「増田佳江展」(mori yu gallery 、京都)。主なグループ展に2011年「PATHOS AND SMALL NARRATIVES」(Gana Art Center、ソウル)、「Art in an Office」(豊田市美術館、愛知)、2010年「FLAT LAND」(@KCUA、京都)、2009年「neoneo展 Part2[女子] 」(高橋コレクション日比谷、東京)、2008年「THE ECHO展」(ZAIM、横浜)、「Group Show」(ギャラリー小柳、東京)、「是が非の絵画」(大和ラヂヱーター、広島)、2007年「Portrait Session」(広島市現代美術館、広島)など多数。
(左)《scratch》2007年|油彩・キャンバス|130.3×162cm
(中)《枯れない緑》2011年|油彩・キャンバス|130.3×162cm
(右)《垂直とアラベスク》2011年|油彩・キャンバス|130.3×162cm
アーティストトーク 増田佳江×保坂健二朗