TEXT - ギャラリートーク 村元崇洋 × 保坂和志

2003年7月12日(土)


「現代美術」――感想が出ないという事に気が付かない

保坂: まず、現代彫刻というのは見る人の感想を封じて、感想が出ない所に見る人を追い込む、という話を先程していたんだけれども、感想が出ないという事、これは見る人の状態なんだけれど、感想も出てこないという事自体が現代芸術全般にある程度接している人じゃないと気付かないんですよね。現代彫刻をやっている人は、少なくとも今これをみながら感想も出てきていないという事に気付くぐらいのメッセージを出しておかないと、どんどん現代彫刻が普段の生活から離れてしまって、関係のないものになってしまうという話をしていたんですよ。だけど今、(村元さんの)話を聞いていたらすごい分かりやすいじゃん。何かまんまじゃん。そこに驚いたんだけど。僕の現代彫刻のイメージっていうと、最近見たから言う訳ではないけど、川嶋清さんの廃墟っぽい感じがあって、それとかすごくおおざっぱに言うとつっぱってるとかっていう感じと全然逆なんだよね、村元さんの作品は。その辺っていうのは僕自信が、僕の小説が人を殺さない、争いがないからといって、文芸評論家なんかは保坂和志という人間はひくタイプで、争いごとを好まない人間であって、例えば将棋とかゲームをすると、守りの事を考えているんじゃないかと単純に思ったりするんだけど、小説でいうと中上健次以降の全体のムードでバイオレンスとか力強いもの、ストロングタイプみたいなものが主流だから僕はそういうものを出さない様にしたっていう動機もあるわけね。てことは僕がやっている事はそれに対する反抗ってのも変だけど、僕は人間のタイプで守りか攻めかってのに分けると圧倒的に攻めなわけ。勝負事なんかさせると攻めの事しか考えてないんだけど、それって村元君のこれも似てるのかなという気が聞いていてしました。こういうものを作っていると、知らずにうかつに見るとこの人の知性を疑うって事あるじゃん。何か子供がこういうのきれいだから集めてみたとかさ、さっきの説明で、雪だるまや、つらら作るのなんかでもただ幼児期の記憶と幼児期の体の気とか身体的なものをもう一度そこで再現してるっていうだけの様に聞いちゃうと、すごく安心する様な気にもなっちゃうんだけど、でもやっぱ違うと思うんだよね。というか違う筈なんだよね。 


「ぐうっとやる」――置物と彫刻の差


保坂: 一つ出来上がるまでの間に、日々やるんだけれども、ぐうっとやる時っていうのはないんですか。

村元: ありますね。ぐうっとやる部分っていうのは、何となくは覚えているんですよ。作りながら。例えばそこにある色鉛筆の作品なんかは、色のバランスだとか、色の組み合わせだとかは、これで二十色くらい使っているのですが、隣り合わせになっている色なんかは瞬間瞬間にこれがいい、あれがいいと考えていって、そういったものある段階で固まってくるとその固まってきた部分で、その先も方向付けられてくるといったようなそんな感じですかね。

保坂: 田舎のおばちゃんが五円玉で作る鳳凰の絵ってのがあって、額縁の中で夢殿とか、金の建物みたいなのとか作るわけ。で、それは絶対芸術には見えないんだけれど、おばちゃんが五円玉だけで紐を通して鳳凰とかができると親戚とか知り合いとかに配るわけだよね。それでみんながああよくできてるねとか言うわけじゃん。そうするとおばちゃんは褒められたと思ってまた作っちゃう、まあそういうのをもう死んじゃったんだけど生涯百個くらい作ったと思いますが、おばちゃんがそれを作っている時にはそれを作品として仕上げる為のぐうっていう時間はないだろうと思うんですよ。でも、村元くんの場合はそれがどれだけの労力をかけたかっていうのが痕跡として見える作品に仕上がっているから、その辺は、五円玉の鳳凰にしてもおばちゃんがどれだけの労力をかけたかってのがもう露骨にわかるからもらった方もああ立派だねとかいうわけだよね。その労力ってのは作った側と受け手側を結ぶ何かではあって、その時間をかけたってのはその出す側と受け止める側を結ぶかなり大きな何かではある気がするの。でもそれがただの手工芸品とかを超えて、芸術品になる為にはどこかでぐうっと力を入れて、ここで力を入れないと作品として立ち上がらないという期間があって、ぐうっと力を入れないとほんとにただの工芸品になっちゃう、手間かかったね、で終わっちゃう、というのとの境目ってそれは見る人にはなかなかどこでぐうってのが入ったかわからないんだけど、でもこれは工芸品じゃないんだってのを感じるかどうかは、どこかでぐうってのを入れるかどうかの差だという気がするんですけど。

新見: 僕は`置物`と`彫刻`と言っていますけど、わーっと作品を見せられて、作品作品言ってるけれども、あー、あんたのは置物だねってそれは、僕なんかは見る事が商売だから、まあその労力って言うのはできるだけその人の立場に立っては考えない様にしているんですよ。たださっき言われた様に最初に惹き付けられる要因ではあるかもしれない。それがぐうっとくる所なのか、それか最初にそういう事をやろうと思った事が、様々な日常の流れとその時の体調とか調子というものを孕みながら、まあこれだけ生きられたんだという形を見せられるってことかな。 


「確信犯」――豊かな言葉


新見: たださっき村元君の言った、自分が大事にしたい何かの不思議な感じがあって、それをそのまま作業に持っていくと駄目になるんだけど、それを何かの形にしたいっていうのは僕はすごく良くわかる。自分もそういう所があるし、でもそれは型の問題なのかな、型が嫌いっていうか、まあ作品を作る時にプロとしての型をとらざるを得ない場合があってその型をとれば、それなりの労力というかある程度まではいくのだけどね、木彫やっても石彫やっても。だけどそういう型にとらわれるのが嫌いっていうのが村元君のひとつの契機というのかな。

村元: そうですね。作っている中で何か見えてくるものっていうのをすごく大事にしていて、人から見れば無駄な労力っていうのも作品の意味にもなるし、またそれが見えないってことも意味になると思うんですが、自分で見えて来るっていうものを作っていく中で、たくさん積み重ねていくと、なんか自分の中で見えてくるものがあるんじゃないかというとこで、自分が作っているうちに見えてくるもの感じてくるものというのが好きで、それを素材の中から自分の中で発見したりだとか、その素材の特性だったりだとかそれだけではなくて、それにまた自分との照らし合わせみたいなものをしてみたり、そういう事を、作品を作っていく過程の中で考えたりしています。

新見: 唐突なようですが、僕は見た時にいいなと思ったのはイメージが膨らむとか、自分が何か楽しくなるとか、どういう風に言ったらいいかわからなかったのだけど、例えばやっぱり彼の作品は豊かな言葉っていうかな、わからないんだけれど彫刻でも音楽でも何でも言葉だと思っているんですね。人間である以上は。それはまあ小説家の保坂さんは違うと言うかもしれないけど、言葉が豊かだっていうか豊かな言葉を含んでいるっていうか、彫刻に一つのものすごい言葉が出てこればそれでいいっていうか、それをオーラの様にまとっていれば生きているって事で何にも語っていなければやっぱり死んでるって事かな。
それから、保坂さんがおばちゃんの五円玉の話をした時に、まあ確かにいろんな国々で素人の人がものすごい事をやるっていうか、膨大な時間をかけて石ころを拾って自分の王宮みたいなものを作った郵便配達の人とか、廃品を塔の様にした人とかまあ今、美術のジャンルで嫌らしい言い方でアウトサイダーとか美術教育を受けていないセルフトートの人とか言われるんですけどね。そういうものに何かクロスする部分もある様に考えたりもしたけど、でもやっぱり彼のものは最初から確信犯だなと思ったりするんですよね。 


「日用品」――謎


観客: なぜ日用品を使うのでしょうか?

村元: 今となっては結構当たり前に使ってしまっている部分が結構ありまして、使い始めた時には何であるのかという事をかなり考えて使い始めたのですが、それも自分自身の中で日用品で彫刻を作っていくというのは何であるのかという、自分でもそういう謎というか、これで彫刻を作るとどういうものになるのかという謎みたいなところがあって、木材だとか金属なんかでは表現し得ないような何か自分の中の感情であったり思いであったりするものが、一見無機質であってあまり言葉を語りかけてこない様な日用品であっても、それを使った時にいろんな言葉が出てくるものになるんじゃないかなっていうそれを作品として作っていく中でパーツを一個一個見ると洗濯バサミであったり色鉛筆であったりするけれどそれが形を成した彫刻になってくると、なんかいろんなイメージや言葉が出てくるんじゃないかというそういうものになり得るのが自分が作品を作るのに使っている日用品であったりするのかな、という思いはあります。

新見: ただ僕も思うんだけど、要するに何を使ってもいい訳で、逆に考えたら何でもいいんじゃないでしょうかってキレてもいいし、人間の髪の毛を切って使う人がいてもいいし、彫刻っていうか訳の分からないものがあって訳の分からないものが見たいというか、どうでもいいのかっていうとそうじゃなくて、訳が分からなくて、豊かな言葉を持っていて、そういうものが見たいっていうだけなんです。