TEXT - ギャラリートーク 星晃 × 日高理恵子

2003年12月6日(土)


「モチーフ」――漠然としたものから


日高: 展覧会で拝見するのは一応最終的な形ですが、そこに至る途中の過程というのは自分の中でどういう段階を経なくてはいけないというような、何かそういうものを星さんは持っていらっしゃいますか?

星: 確かにそれはありますが、意図としてはできない。たまたま今回は……、まさに後ろにある二点と、反対側にある作品が新作なんですが、同時にスタートして、どの絵か忘れたけれど、一点だけ気が付いたら自分のなかで、「いっか」ということになっていたんですよ。だから、腑とした瞬間に納得できる絵になっていた、というのが今回ありました。まあ、それに合わせて、他の二点がレベルを合わせていくというものではないんですが、ひとつだけそういう絵との出会いがありました。

日高: 毎回描き始めるときに、何か特別なイメージがあったり……、あるいは途中の段階で、今の時点では表面に見えないような段階、展覧会で作品を見せていただく者は作品の制作過程を見ることはできませんが、必ず絵を描くときにこういう段階を踏んでというような、特に決めている訳ではなくても、何かいつも決まっている制作過程とか……。例えば具体的に見えるものから描く場合やそこからインスピレーションを得て描く場合は、ある部分想像できると思うのですが、そういった要素が少ない場合どういうところから絵を描く上でのインスピレーションを得ているのかな……と。あるいは作品をつくるにあたっていくつかの段階を経るのが常になっているのかな……と、それとも毎回違うのでしょうか?何かインスピレーションのもとみたいなものは?

星: インスピレーション、モチーフっていったらいいのでしょうか。それはとても漠然としてます。だけど、今あるってことは、過去があるから、そのときの反省というのがあって、違う、こうしたい、というものが一応動機になったり。あとは、リーフレットにもちょっとだけ、下手な文章を書きましたが、日々の生活という風にあるいは、視覚でもあるのかもしれないけれど、何か人との対話みたいなもので、感じたことを描いているんじゃないかな、と僕は思っていて、それを表現する上で僕は日本画というところから始まると考えて、段階を経るにはやはり時間というのが必要です。だから、あまり理性的には絵をどういう風に作っていくのかは意識していないですが、漠然と、一年間あれば、ここまで描けるみたいです。技法的な話になってしまうけど、パネルをつくって、紙を貼ってというそういうのも含まれていて。

日高: 今それぞれの制作で、どういう色彩や空間が途中から入ってきているのかな、って想像しながら聞いていました。たぶん私は星さんの作品からいろいろな要素を削り落としていくような、何か塗り込めていくような空間をすごく感じていて。で、星さんの制作するきっかけが何からきているのか、作品を見せていただく者にとってはすごく興味があります。具体的なたとえば形だったりとか色だったりとかではなく、自分の感覚から始まるのですか?

星: そうみたいですね(笑)

日高: (笑)やっぱり私は、見ることから始まっている制作なので。

星: 見る、ということに関していえば、さっきも言いましたが、日々の日常の何か感じることが、僕にとって「見る」ことなのかもしれない。

日高: 見ることを形だったりとかに残したりは?

星: 感じているけど、それを形にはしていない。なんかのイメージ、エッセンスになっている。実際は紙を貼って絵具を置いたりして、その出てきた形からなにか、無意識ではないのだけれども、作業する中で絵ができるというか。

新見: アトリエに行ったときに、今回やってもらった作品の前のものを一点か二点みせてもらいましたよね。それで、こういうものは稀有だ、偶然だ、やろうとしてできるものじゃなくて、やっているうちにある瞬間わっとでてきて、「おお、出た」、という感じらしく、これは真似できない。それは、僕はわかった。待っていて、あ、来たというのが。まあでも、みんなそういうものなんじゃないかなと思いますがね。基本的に、僕がこれ風景なのか、って言われても、というか壁だろ、という風に僕は最初に思ったんですね。パンフレットにも書いたのですけれども、ダ・ヴィンチがやりたかったことは、最終的に何かわからなかったけれども、何百年たった石の壁のシミをただ最終的に描きたかった、と思うんです。まあ、時間でもないし、形でもないし、でもそれでも何百年か生きているの「時間」みたいなものを、星さんは描きたいんだろうなっと僕は展開して、文を書いた。本当にそうかはわからなかったんだけれども。

星: 無責任なんだけれども、何を描いているのかわからないし。何を描いているというか、対象というかわからないんだけれど、描いている行為というのが、実感ができているわけです。でも、他者の意見というものは重要で、そういう風に見えるんだ、と自分との差異が体験できる。何か伝わるのかなというのは重要です。うーん。説明できないんだけれども……。

「線をつかうということ」――絵画と物質のせめぎあい


日高: 重ねていく層と、私はどうしても星さんの線に興味があるんですが、星さんにとって線とはどういう要素なんでしょうか?

星: うーん。線ねえ……。

日高: それは無意識のうちに入ってくる?

星: 意識しているみたいです。

日高: 塗ってできる空間と、線でできる空間って私は違うと思うんですけれど、それは意識して使われているのですか?

星: まさにそこの感じ。どうしても塗っていくと、画面がぬるくなっていくというか。なんかわかんなくなってきちゃって、もう一回、きっかけというか、くさびをうっていきたいというか、結局その繰り返しなんだと思いますが。

日高: どっちの段階でも、面と線の重なり合いというのは常にある要素ですか?

星: そう。

日高: どうしても重ねていったときに日本画の絵具は、たとえば紙にサッとひいたときはすごく紙に対して、粒子がまばらに無意識でも散っていくので、そこに地の空間と、粒子でできるその微妙ななんとも絵肌が呼吸しているような空間が生まれるんですが、なんども重ねて描いていけばいくほど、その粒子がつまっていくので、さっき星さんのお話しにあった、塗るという行為をしていくと画面がどうしてもぬるくなるような感覚を伴う画材だと、私も思うんですね。重ねていけばいくほど絵具の層が出来て、ある瞬間から私にとっては絵具というよりも物質として見え始めてしまうんですが、星さんのなかではこの絵の空間と、物質が先に見えてしまう空間とが重なってきた時に、物質的に見える部分を打ち消すために線が入るんでしょうか?

星: 確かに、物質が物語っちゃいけないなというのはいつも思っていて、だけど欲求として、積み重ねていく仕事をしたいというのがあります。だから線を引くのかもしれないし。あんまり線はなかったんですが、こんなに表面にあるのではなく、もっと中に入っていく感じがあったら理想かな。

日高: 線を描くといっても、本当にいろいろな線があって、特に今回の作品では絵具で線を描くというよりも、削る感覚の線が多いように感じたんですが……。まさに線を「描く」というよりも本当「削る」ような。そしてそれが鉛筆のような、筆に比べるとより硬いもので……その時、筆で描くのではなくて、ある硬質なもので削るように線を引くことによって生まれてくる質が、塗られた空間と、拮抗しあう。層が厚いだけにある部分、物質的に見えやすい空間だと思うんですね。で、そこに線を引く。本当にくい込ませるように描くことによって、重層的に重なっていく空間。これはやっぱり絵具で描くのではなくて鉛筆でひっかくというか、描くということが必要だった?

星: たぶんそうなのかもしれないけれども。

新見: アトリエに行ったときに、僕も引掻きが、気になったというわけじゃないんですけれども、これはいるのですか? と聞いたような気がするんです。そしたら彼はいると。だからやっぱり彼が絵にするためにどうしょうもなく塗り固めることによって、表面的な引掻きではなく、深みの引掻きみたいにして残っていますよね。それで、僕は好きだな、と思ったんですね。ただ、やっておられることは普通にみて、かなり変わったことであるな、と思ったんですね。現代美術でいうと、磨滅していくというか、なにかがうまれるというのもありますが、何かがこう磨滅していったり、さすり合っていたり、テカテカにしたりして、次のものに変わっていく。まああまり表現者は、いわないことだと思うのですが、そういうものを狙っている作家だなと。現代美術家でいうと、おそらくサイ・トォンブリかな。サイ・トォンブリももともと、油絵がうまくてオブジェみたいなものをやっていて、オブジェにいろんなものを塗ったり、テカテカにしたりして、物質感。物質感だけを出したら、オブジェになっちゃうんだけれども、それを最後の最後までやって絵にしていきたいと。そこらへんが彼にとても精通しているのかな。で物質感もいるよね。その両方のせめぎ合い、描くのか物質なのか、あらわれるのか、磨滅していくのか。そのギリギリのところを僕が短絡的に言葉で言うと、狙っているのかと思って、そこがおもしろいなと。