さかぎし: 磁器土のシリーズは四、五年やっていると思います。このシリーズの前は石膏を使っていました。石膏を垂らして線を引いて、その線の上をまたなぞるように線を引いて、線が積み重なってくるような感じでつくってました。
児島: さかぎしさんの作品は、以前から、層が重なっているというイメージがとても強かったんです。白という色が、有機的というかちょっといびつな直線みたいな形で層を形成している。それはこの磁器土のシリーズにも受け継がれていますね。根気と集中力と時間を要する作業の上に成り立っている作品というのは、小さくても、そのすごく凝縮された空間がぎゅうっとあって、そこに圧倒されます。磁器土や石膏を垂らすという手法にこだわっているのはなぜですか?
さかぎし: 別にこだわってはいないんですけど、そうやって何でもかんでも「意味が無い」とか「こだわってない」とか言ってると話がつながらないので無理矢理話すと、石膏の時はただ垂らすように線を引いていただけです。今は泥水にした磁器土を、油差しみたいなのでこう、垂らすようにして水滴がポタンと落ちる。で、その水滴が少し乾いたらその真上にまたポタンと落としていく。という風に積み上げているんですが、点でやろうとか水滴でやろうとかいうことを考えてやったわけではないです。ただ、石膏で線を引いてた時もそうなんですけど、なるべく作家が余計な事はしないほうがいいかな、とは思いますね。美術に関して言えば。
児島: 余計なことをしない、というと?
さかぎし: ものをつくるにあたって、人間の、こっち側の勝手で何かをつくろうとか、何かを生み出していく、どうよ、とかいう風には思わないんですよ。美術とか芸術とかいうエリアにおいて。だから「いいのができたぜ、どうだ、見ろ!」とは思わないし、そういう意味では発表意欲もそんなに強くないです。まあ、何となく淡々とものをつくり、日々を過ごせればそれでいいのかな、と。もちろん、日々の生活を過ごすためには食っていかなくてはならないですから、働く必要があるし、何かしら稼いでいかなくてはいけない。そういった意味で俗っぽいことに関わる必要はどうしてもでてきますけど、シンプルに作家としての人生を過ごすのは、なるべくシンプルなことでものをつくっていけばいいかなと。
こんなものつくろうって狙っても、子どもの方がうまいですよ、たぶん。表現するのは。子どもの頃は、ウルトラマンを描こうとかお花を描こうとか、完成予想図があってそこに向かって描こうとはしているんでしょうね。で、そういう経験を繰り返してきているうちに、何かをつくろうとしても、結局最終的にできあがったものは、自分の力不足ということもあるでしょうけれども、悲しいものができあがるわけですよ、きっと。この程度のものしかできないわけですよ。
というようなことで、やっぱり作り手の方がこんなものをつくろうとか、何かゴールに向かって制作をしてもろくなものにはならない、と思うようになったんでしょうね。
児島: さっき作家として食べていくためにということをおっしゃってましたけど、さかぎしさんは、余計な事をしないで、ゴールに向かってつくるんじゃなくて、それでも作品として成り立たせて、ちゃんとそれを売って、自分の生計を立てている。それができる作家って未だに少ないというのが現実だと思いますけど。
さかぎし: 少ないですよね。少ないですけど、現実に食っている作家はいるわけですよ。すごくコンペティティブな世界だなとは思いますけど。
例えば油絵科の受験生っていうのが、たぶん芸大の油絵科は全員が受けるだろうとすると、僕の頃で三千人ぐらいなんですよ。で、三千人いる中で、芸大とか、ムサビとか多摩美とか、どこかの美大に収まっていく。その三千人が、今僕の世代で作家活動している人たちが、年に一回貸し画廊を借りて発表しているような人たちも含めて、百人いないんじゃないかなあと思うんですよ。その中で作家として食えている人がどれくらいいるかなっていうと、二十人ぐらい。でも言い換えると、二十人ぐらいは作品の収入でしのいでいると思うんですよ。
三千人から二十人までいくっていったら、結構な倍率じゃないですか。不思議なもんだと思いますよ。でもそれは、おそらく他のジャンルと比べてもそんなに変な比率ではないですよね。逆に言うと同じ世代で食えている作家が百人も、二百人もいる方がおかしい。食えている人たちが未だに少ないという現実がある、と言われれば、でも少しはいるじゃない、と思いますし、比率的にはこんなもんじゃないですか。
僕だって食い詰めちゃって続けられなくなってしまったならば、たぶんそれまでの作家なんですよ。それまでの才能。運とか縁とかそういうことも含めて、全部含めてそれまでの作家なんだろうな、と諦めるしか無いですね、潔く。まあ諦めないと思いますけどね(笑)。今までもたまたま月給を貰わないでやってきただけで、食い詰めたらバイトはするつもりでいましたから。例えば作品が全く売れませんでした、となればたぶん、この年だとガードマンか、
児島: (笑)
さかぎし: タクシー運転手か、まあそんなもんしかないでしょうけど、でもその気ももっておかなくちゃ、子どもも死んじゃいますからね。子ども、作っちゃいましたからね(笑)。人ごとじゃないですよね。
児島: そうですね、そういう作家としてのプロの自覚みたいなもの、根性の座っているところっていうのがさかぎしさんのすごいところだなと思うんだけど。
児島: 作品を作るんじゃなくて、作品に「なる」というと、ある種の生命現象とも言えるのかな?
さかぎし: 日本では「こんなになっちゃった」という言い方をするじゃないですか。なっちゃったんじゃなくて、本当は「誰か」が「こうした」んですけど。西洋的に言うならば。でも「こんなになっちゃった」ことを僕らは自然に受け止めますよね。誰が壊した、ということじゃなくて。これ英語では言いにくくって、It became?って言った時に、It becameだけでは終わらないですよね。英語の場合は具体的に言わないと言葉にはならないんですが、こんなになっちゃっても、僕らは何の問題も無いんですよ。「なっちゃう」とか「なる」というのは、僕らにとってきわめてリアリティーのある言葉だなと思うんですよ。
フランスのなんとか研究所に務めている日本人のインタビューを読んだんですけど、向こうで日本の雅楽の成り立ち方が、理解されない、説明しきれない、というようなインタビューだったんですよ。雅楽って最近、ほら、洋楽のカバーを笙とかでやる人たちもいますけど、あの音のイメージで言っても、いろんな「あ?ああ?」って音が立ち上がるように現れてきて、ここから実は音は始まってなくて、「あ??」ってまとまってきて何かこう……「なる」時っていうのがあって、そこから楽曲に「なる」。「なる」んだけれども、でも間違いなく音はここから始まっていて……ってそれがわからないんですね、西側の人たちには。洋の東西をわける必要は全く無いと思うんですけれども、やっぱり僕らには僕らのやりとりがあって、その何かこう「なる」ってところを元にしてあるものを整理しやすく受け止められる、ってことはあるんじゃないですかね。ということで僕はその「なる」ということにこだわっているんですけどね。
で、我が身に引きつけて言えば、元に戻りますが、作品というのは手前の勝手でこういうものを作ろうとか、こんな形にしようとかではなくて、なるようになっていけばそれでおそらく完了。僕の考えているものとしては。
児島: なるようになるというか、それを見極めるというか……
さかぎし: それはある種の生命現象みたいなものですから。そこにあるものは勝手にありますし、ならないものはやっぱりならないんですよ。あの水滴を垂らし始めて、手掛けたものが全部がちゃんとなっているわけでは無いですし。ならないものもあるわけですから。
児島: なるようになる、ということですかね。人間が思い描く理想とか、ゴールに向かって「なってほしい」と願っても、どうしてもそうならない。無理矢理つくっても、心が動かされるものにならないのかな、とも思います。
さかぎし:うーん、僕の方はそういうこともあんまり考えてないですけどね。
児島: ちょっと余談ですが、ゴールが見えないとか、思い描いたとおりにならないというところが子育てと結びつくところがあるかなと思うんですが。
さかぎし: あるかもしれないですね、はい。僕はもう自分の作品を生命現象だと思ってますから。作品の成り立ち方が。どうなるかわかんないですよー。
児島: 子育てって、思った以上に、今までの経験とかほとんど役に立たない。ぜんぜん予期しない事ばっかりで、思った通りになることは一つもないかもしれないですよね。
さかぎし: にもかかわらず、例えばいろんなものを食べさせて……違うものを食べさせたって、最終的には、全部形は違うんですけど、形は違うけど最終的には人間。おおむね人間というエリアのものにはなるんじゃない。そういう事ですよ。
だから僕の作品も、それぞれの形とかサイズとか、印象は違うんですけれども、大枠で言えばやっぱり芸術の範囲の出来事。青写真に向かって仕上がったものではないですから。
児島: 生成していく、「なる」っていう、もう人間の思いとか手を離れたところで起こっている事なんですね、きっと。
さかぎし: 僕、適当にしゃべってますから、ちょっとくだけちゃった言い方になっていると思うんですが、本質的な意味での芸術の媒体性をおそらく語っているんだと思います。作家は本来的に、その媒体性とはいかなるものなのか、というのが見たくて作家をやっているのだと思います。言葉に気をつけて言うならば、そういう事だと思います。