飯村: 僕の場合もね、英語を使ったり日本語を使ったりしてそれをミックスしたりしているわけで、ここでもね、日本語もたくさん出てくるけれども、英語もたくさん出てくる。二ヶ国語的。それはたまたま、あなたの意識を通して、フィルターを通して出てきた日本語だとは思いますけれども、ただ街の中にも日本語があるわけですよね。観光客のために。それとあなたが選んだ日本語とはね、非常にミックスしていると思うんですよね。で、それは、みんなにわかって欲しいということで、日本語を使っていると思うんですが、同時にあなたの中の問題であるという気もしたんですけれども。日本語と英語の両方を使うというのは。
タン: そうですね。今、日本にいるから、日本語使います。この作品のために、結構いろいろ研究もしました。でも、この作品の前に作ったものは全部英語で、英語といっても、自分の母語ではない。だから、日本語も英語も自分の言葉ではないです。だから、結構勝手に、好きなように、日本語も英語も使ってしまいます。飯村さんの作品は、たとえば、「オグザーバー」とかそのような作品の中に、I see you とかYou see meとか、そのように飯村さんは大切な要素だけを英語で使っていて、それは、ものすごくうまいと思います。私は、そのようにアイディアを上手に出すのは全然できません。飯村さんのそのような作品がとっても好きです。
飯村: 例を挙げると、あなたの作品の中で、日本の借景のことが先に出てくるでしょ。で、借景の説明が出てきて、それがこの作品のメタファーになっていると思うんですよ。それは僕のこじつけかもしれないけれども、ほとんど風景のほうはね、わりとぼやかしているでしょ。たまたまそうなったのか、そういう風に意図してか、非常にソフトフォーカスで、映っているんですね。それで、ここにいる、前のひとのシルエットが、より鮮明に出ているわけ。だから、観客が主人公で、ある意味で、ここに見える風景はね、借景みたいにみえるわけですよ。
タン: そうですね。あの、実はこの壁(正面奥の壁)にあるプロジェクションは、借景しています。この窓から、カメラがあります。このカメラは今の銀座の様子を撮影しています。それは、借景。前のコンビニまで撮影できるんですけれども、多分犯罪かもしれない(笑)。だから街のサラリーマンとかが歩いている様子を撮影しています。あと、あそこの壁は、会場の様子を撮っています。お客さんも一緒に、作品に入って欲しい。
飯村: だから、お客さんが―シルエットですけれども―、主人公で、あなたが映したイメージがさっき言った借景みたいになっている。そのカメラがまた銀座の風景を撮って、この背景としてみえてくるという、風景が全部借り物だという、その辺がとてもおもしろいと思ったんですよ。そういう設定がね。だから、ぼかしたことが効果的だったんだと思います。
タン: でも、もっと、ひとつのきれいなものを作りたいです。飯村さんのように、コンセプトをはっきり表現するのが、私の目標です。
飯村: この作品でもね、あなたのコンセプトは非常によくでていると思いますよ。日本の植民地時代のことが、文字でここに出て、教科書にでているようなことが出てきていますね。
タン: この展覧会は第一段階です。いっぱい作品を編集していなくて、研究の面もいろいろあります。だから、第一段階として、教科書的なものを多くだしています。たとえば、19XX年に何があった、何があった、と、いわゆる、事実だけをそのまま使いました。けれども、次の段階に、批判的に、自分からその事実を分析したいと思います。でも、自分の日本語には限界があるので、今のところはそのままです。でも事実といっても、確かに立場によって、違います。だから自分の国について、日本語のWEBサイトを研究しました。そしたら、シンガポールの歴史について、書いてあることは結構、私と知っていることとは違います。特にたとえば、戦争時代のこと。だから作業のときにそれを読むと「えっ!違う!違うなあ」と思って。確かに自分も経験者ではないと思うんですけれども、でも進むことができなくて、途中でストップして考えました。日本語ができないから、自分で日本語で反応するのは無理です。だから、映像で反応しました。たとえば、戦争についての話があって、「我々を解放してあげる」という言い方があって、映像的に、今のイラクの、今もアメリカはイラクのことを「解放する」といっている。そのイメージを使ってみました。同時にその言葉―日本人が書いていること―をそのまま使って、映像では違うものを出しました。
飯村: それはとっても僕は、“きいている”と思いますよ。今の借景の問題も含めてね、ここに来ている観客も、参加せざるをえないというか、参加しているんだ、ということを暗示しているのではないか、と思います。我々は、たまたま、あなたの作品を観に来たわけだけれども、あなたの作品の一部に、ある意味、させられてね、あなたによって。で、それをわれわれは見ているんだけれども、あなたの風景を。そこで、あなたが書いてくれた教科書の事実が―あたかも事実であるかのように出ているわけだけれども―まあ、それは事実ではない、と。そういうことに我々はここにきて立ち会っているわけですよね。その風景にね。だからそういう意味で、とてもあなたの戦略は成功していると思いますが、どうですか?
タン: 成功とは言えないかもしれない……。
飯村: まあ、それが事実でないということをね、僕らはほとんど知らないわけですよ。
タン: そうですね。自分もよく知らないからこそ、今回はいろいろな風景とか、事実をそのまま使って、同時にひとつの空間にお互いに対話させるように考えてみました。だから自分から出すものというのは少ないかもしれない。
飯村: 全部じゃないんですけれどもね。それと、今のシンガポールの風景がダブルイメージとして出てくるでしょ。そのギャップみたいなものがあるのでは?
タン: そうですね。
タン: お客さんはどのように感じているのでしょうか?
スタッフ: もしも質問がある方がいましたら……。
観客: 借景って?
飯村: 借りる風景と書いて、日本の石庭なんかで使う、後ろの林とか山とかを、庭の一部として考えるという、考え方、技術ですよね。一種のエンバラメンタルな、その塀の中だけじゃなくて、塀の後ろも含めて考えるという。あなたが、そういう庭をみたときどういうことを考えましたか?
タン: 青春18切符で、日本中旅行しました。いろんなところに行って、竜安寺にも行きました。そのとき、竜安寺もすごく有名で、飯村さんの作品もみました。だから、あの、おもしろいことに、竜安寺を見たときに、竜安寺というより、飯村さんの作品を考えました。そして、石庭についていろいろ研究しました。その中に借景があったのですけれども、ああ、かっこいいなと。だから今までやってきたことを借景といっていてOKかもしれない。いろいろ、ドキュメンタリーっぽいのも作ってきました。だから、借景という言葉と、なんていうんでしたか……。え~と、ミニチュア、縮景。「借景」と「縮景」、その二つの言葉がとても気に入りました。飯村さんも竜安寺についての作品を作りましたよね?
飯村: そうですね。それもたまたま、アメリカの美術館の委嘱でつくったんです。ですから、英語の文字が入っているのですが、そういうことで、外国人のために作ったということがありますけれども、僕のひとつのアプローチとしてね、作ったんですね。で、もちろん、借景のことも考えましたけれども、ここでは日本語の「間」というのがテーマだったんですね。それで、非常にゆっくりとした移動撮影で撮っているんです。「間」っていうのが、西洋では時間と空間というのをはっきり分けていて、日本では、「間」というような、非常に、時間と空間が未分化な、一緒になった状態を「間」というんだろう、と僕は考えたんですよ。それを、映画的に実現するという意味で、非常にゆっくりとした移動撮影が、空間も時間も切り離せない、そういう風景をつくりだす。もしもそれが非常に早い移動とか、パンとかだとね、運動として時間を意味するわけだし、また固定したショットだと、空間を意味する。それを両方を兼ねそろえたところで、ゆっくりした移動撮影を使ったんですよ。僕のアイディアをカメラの中に活かしたいと思って、そういう風なことをしたんですね。クローズアップから入って、だんだんひいていくんですけれども。そうすると最初は、塀の向こうの山や林は見えなくて、石と壁だけが見えるんです。そこを非常にゆっくりと移動しますから、いわば、オブジェとオブジェの間の間隔が非常にながく引き伸ばされるんですね。それで、「間」というのを実現したいと思ったんですね。僕の場合。
タン: 「間」というのは、特に難しいです。外国人にとって。
飯村: その辺難しく考えなくていいんですよ。たとえば、会話の中でも「あいつは間が抜けている」っていうでしょ。だから、ごく普通の意味でも使っているんですよ。
タン: どのように、その抽象的なことをうまく映像化するのか。難しい(笑)。
観客: たとえば、映像を「借景」とか言われていたのですけれども、ひとつの風景を投影するだけだったら、それなりに意味がわかりやすいんですけれども、カイさんの場合はそればレイヤーになっていて、ひとつの提示された危機感、というものを感じるよりかは、それよりも、映像とか、言葉が持っている意味を別のところに……、なんか意味があるものを見せながらいっぱい重ねるので、意味がない方向に進んでいるのではないかと思いました。そういう意図とかはあったのですか?
タン: 意味があるものを、意味をなくしているのか、という質問ですか?
観客: 撮っているときには、すごく好きだった、たとえば猫とか、アヒルがとか風景を撮る。カイさん自身に意味があり、猫を撮っているという意図がある。でもそれが、いっぱい重なっているので、単純にその猫を伝えようとしているのではない。それで、文字とかもその上に乗っかっているんですけれども。
タン: 別に関係がないですね。映像と文字。たとえば、戦争のことについて、内容があるときに猫の映像があるときなど、全然。そうですね。わざといろんなコンビネーション、組み合わせをやってみて、わからないほうがいいと思っているんです。普段はスムーズにいかないとダメと学校が教えている。私も学校で学生に同じようにどのようにスムーズに映像を作るかという方法を教えていたんですけれども、自分はまったく違う方法をつかって、わざとスムーズじゃないものを作ろうとします。