立花: 多分東京で開いた富田さんの個展は全部見ているような気がします。タイトルには一字が多いのですね。「艶」とか「秋」とか。それはどうしてなんですか?
富田: 言霊って、本来の倭言葉って含みが多くて、一音一音、四八音全部、意味があるらしいんですよ。で、それをやっていくうちに、漢字で何をあてるかっていうのがでてきて。例えば、「えん」っていうのは「つや」って書くんですけど。これはきっと、むこうとか、なんかの縁で描いているんだろうなって。「えん」をつけたいって思ったときに、その「縁」じゃなくって、掛詞として「艶」っていう字をあてたりって、いうふうに考えたんですよ。
立花: 考えてないような気もするんですけどね。
富田: シンプルなほうが含みが多いですよね。
立花: そうですか。言霊(ことだま)なんていう言葉をここで聞くとは思わなかったですね。あともう1つは、花が好きですね。花が好きで描いてるのか、なんなの? 花ばかりで、男の人は花か描かないんじゃないかと思うんだけど。女の人が描くってわかるけど。
富田: そうですね。僕は学生の頃から作品を作っていて、その頃聞いてた音楽は「アンビエントミュージック」。そのコンセプトが、『聞こうと思えば聴くことが出来る。無視しようと思えば、無視できる。』じゃぁ絵画で、「あることとないことの境目」ってなんなんだろうって考えた時に、障子に映る影。それは、カーテンに映る影で「ああ、今日天気いいじゃん。よかったー。」って僕らはジャッジしていて、その影が映らなかったら、「ああ、今日、曇りかよ。雨かよ。」とかって。その障子とか、カーテンに映る影っていうのが、不在と実在の境目。無視しようと思えば無視できる。見ようと思えば、見えるのは、障子の影なんじゃないかなっていうことに行き着いて。で、大学3年くらいから、壁に映る“植物の影”を描き始めたんです。1989年の個展。その時、いろんな影を描いたんですけど、ちょっと散漫な感じがして、空間として、まとまらなかったんです。で、こりゃぁいかんなぁと思って。どうしようってなった時に、ススキって色がないんで、形だけでわかっちゃうんですよね。で、これは作品になるなぁと思って始めたのがススキの影だけ、四十点くらい描いたんですよね。銀座で最初にやったのは「秋」という展覧会。
立花: 今、空間なんて言葉が出てましたけど。富田さんの作品というか展覧会っていうのは、周りにこだわっているっていうか、空間感覚が強いですよね。だから、そこに入っていると、不思議な気がする。まぁ、ヒーリングといいますかね。非常に気持ちがゆったりする。のんびりするというか。ふっとくつろぐというね。そういうところが凄く、あるんですね。それを一番最初に感じたのは、ススキですね。こういうところに座って、一杯お酒でも飲んだらいいだろうな、そういうのがあるんですよ。団子があってもいいとか。私は美大にいますから、油絵とか日本画の人たちの展覧会によく行くんですけど、それとはちょっと違った感じで。平面的な絵を描いてるんだけども、なんかそこに、空間的な広がりがいつもあるような状態だと思うんです。彼の出身学科が、空間演出デザイン、当時は芸能といってましたけども、いわゆるスペースというものを重視する所だったんで、その影響なのかしら?
富田: そうですね。
立花: そうですか。こういうスペースの中で、年寄りがのんびりして、だんだんと昔のことを思い出してくるというか。リハビリテーションの、まぁ、ボケ防止のためにはこういうスペースって非常にいいんじゃないかと思いますよ。彼は仕事を変えたらどうでしょう。絵画というか、空間によってリハビリテーションするような、そういう仕事に。空間によるカウンセリングっていうのは良いんでしょうけども、カウンセリングによってある年齢の人たちに復活させる。昔のことをもう1回、思い出させるっていう。そういうような働きが彼の作品にはあると僕は思ってるんで。どうですか?
富田: そうですねぇ。ススキやった時は、部屋をどうやって繋げたら良いかを考えたんですよ。今ではだららって繋げてるんですけど、当時、空けちゃってたんですね。自分で展覧会見たときに、作品の大きさで間を取るんですよね。小さいと寄るし、でかいと引くじゃないですか。それを踏まえた時に、どうやったら絵が繋げて見せられるかなっていうことを考えて。作品と作品の間隔を何cmにすればいいかとか。つまり、人間の死角、画角がどれくらいあって、これくらいのサイズだとどれくらい引くとか、何枚絵が同時に見えるんだろうってことをすごく考えて。同時に、歩いていくと、それはフィルムを回していくようにたらららって繋がっていく。さっき先生もおっしゃった自分の過去にフラッシュバックするんですけど、入場してから、退場するまでに、原っぱの中をぐるぐる散歩しているような錯覚を起させることが、可能じゃないかなってことは考えましたね。それから、作品つくりながら、鑑賞者が何を感じるかとか。何を考えるか、考えさせるためにはどうしたらいいのか。ってことを、どんどん、考えるようにはなってます。
立花: 考えてないようで、考えているところが、流石に、アーティストというか。考えているように思わないんだな。すっと自然にやっているところがあって。一生懸命こうだこうだ、こうやってやろうって作ってる作品があるけど、そうではなくて、「どうなのかな?」と思わせる、そこが非常にいいところだと僕は思ってるんですけど。
児島: 前にアトリエに伺った時に、空間の構成をすごく考えてるというお話をされてましたね。それで、方角、方位を気にしてらしたんですけど、ここでも、実はちゃんと東西南北によって展示の仕方を決められています。空間、そして方角や方位を気にされるようになったのは、どういうところからなんですか?
富田: やっぱり、アフリカですよね。影が落ちるところは北半球は北になるんですけど、南半球行っちゃうと南だったり、赤道直下行くと、影、真下だぜ。みたいなところ行って。奥に行ったら英語なんて通じやしないんですよね。これはだめだと。で、子供が「チーノ!チーノ!」「チーノじゃねぇよ、ジャパンだ。」「ジャパンか。」とぉ!ってくるんですよね。日本人は空手かぁ。まぁ、いっかぁー(笑)。で、おじいちゃんとこ行くと、「チーノか?」「ジャパンだ。」「ジャパン、チーノ、コリアー、……ブラザー」そうか、そらそうだよなぁ。形かぁと思ったりしてて。じゃぁ、日本人としてのアイデンティティとか、個人としてなんだかって……。ケニアだとサバンナ。あそこ行ってみると、真下に影出てて、方向のこととか全然わかんなくなった時に、イスラムの人たちは何を根拠に生きてくのかな?何を道標に。向こうの山の家まで、夜でも帰れるわけですよ。で、星見ながら、俺んちもうちょっとそっちだとかって歩けるわけですよ。こいつら凄いなと思っちゃったんですよね。で、五感が凄く重要じゃないかって、考えるようになったんです。それからですね、方角とか、絶対感覚。
立花: 1990何年だったっけ?「宴」でしたか。そこで、あなたは青竜だとか玄武、白虎を使っている。これはまさに方角でしょ。
富田: はい。そうです。
立花: だから、それ使ってるって事は、自分でもう……
富田: 方角。方位とか風水。風水の勉強をして、理解が出来たころの作品なんですよね。東洋思想って、まぁイスラムにも凄いシステマティックな考え方があって言語とか全部システマティックなんですけど、東洋思想にもずいぶんあって。簡単にいうとじゃんけんなんですよね。呪術になっていて封じ込めるためにじゃんけんをしてる。作品を飾るのは、方角とイコールになって、それは自然界の摂理にあっていることなんですよね。それで、鑑賞者に正しいものを伝達できるんじゃないかって、考えたんですよ。南の壁面に飾る真っ赤な作品で朱雀。それは色でいうと、南は赤なんですよね。そういったことを全部踏まえていって、作品つくりをしてみようというのが、「宴」という、パーティーという作品になったんですよね。
立花: もうちょっと聞きたんですけども、これ。この輪が非常におもしろいっていうか興味あるんですけど。一枚にしちゃわないで全部切れ目で境界をつけてる。これは、どういうこと?普通、全部、1枚に描きたくなると思うんだけど、それを切り売りするように作ってる?
富田: 大学三年の時に、ユニットに興味がいってて……。三角形のタイルを考えて、毎日デザイン賞に出したら、最終選考まで残っちゃったんですよ。実はそのまま卒業制作に使ってしまって(笑)。で、タイルになぜしたかというとペインティングだと絵心がないと描けないんですけど、ピッチさえ決めれば同じものが再現できるし、どんな空間でも埋められると。そういうコンセプトが頭の中にずっとあって。じゃぁ、そういった空間を選ばない、どんな場所にも入れられ展示できる絵画ってなんだろうという時に、タイルって考え方が使えるんじゃないかと。それ以後の作品は、60cm四方で作っていって、ばら売りすると。それから、空間が曲がったら絵が曲がっていくと。で、低すぎたり、高すぎたりしたら、下一段カット。上一段カット。空間に合わせてどのようにも飾れるというので、僕の中で『ユニット絵画』っていってるんですよ。
立花: 発想とすれば可変的スタイルというか。そうでしょ?あなたが作ってるのと違った風にね、入れ替えることも出来ますよね。そうすると、作品を全部買った人がいるとして、自分流に組替えて今日はこういう気分だから、これをこう換えちゃおうということがあるとすると、気分としてはおもしろくなるんじゃないか?
児島: あと、富田さんの展示でおもしろいのは、ブラックライトを使ったり、音楽も展示の一部として取り入れてらっしゃる。インスタレーションで光の要素を使うことはよくありますが、音まで使う作家っていうのはあんまり多くないような気がするんですけど、音はずいぶん前から使ってらっしゃるんですか?
富田: そうですね。昔から、音は使ってますね。それは、場の記憶、経験をフラッシュバックしたりを発展させてくれる。だから結構、音は重要だと思ってますね。逆に、音が聴こえてこないと作品創れないんですよね。こういうの描きたいんだけど、音が聴こえないからまだ出来ない、と終わっちゃうんです。「聖」は、構想から音が聴こえるまで5年くらいかかったんです。トルコで、イスラム神秘主義、メブラーナのお祭りに行った時に、ネイっていう葦笛の音楽を聞いて、「あっ。この音だったら、あの作品に合う。」って、じゃぁ、あの作品を造ってみようってなったんです。
児島: その、音が聴こえるっていうのは、音楽だけではなくて…。
富田: ないですね。音楽じゃない音。
児島: ここで流している音は音楽として、作曲されたものですか?
富田: いや、これは、アフリカ以来の友人の作品です。昔からライブで聴かせてもらいながら僕、目、瞑っちゃって。演奏聴きながら、勝手にビジュアル作っちゃうんですよね。今回のは、蓮でやってて、当然水がつき物なんですけど。いろいろ捜してたんですよ。どうしてもタイのイメージもあって。アジアの音ってことがあったりしたときに、結局、体のリズムがアジア人独特のノリがあるんで、それは西洋人にないものなんで。この作品に合う音ないかなって、色々探したり、聴いたり。当然、制作中もその音楽をかけるんですけど、なんか違うよなって言いながら、しょっちゅう替えながらやってる時に、これに決めたんですけど。
立花: 富田さんは、音楽にも結構、造詣が深くて。僕、あなたにいい音楽のテープを作ってもらって、それを今も聞いてますよ。