TEXT - ・アトリエトーク:佐藤万絵子×白坂ゆり

それまでは会場制作(会期中も制作を続けている状態のまま公開展示する)という方法で展覧会を行ってきた佐藤万絵子。αMプロジェクトでは、閉廊後の夜間に制作し、昼間は作家不在でその進行中の過程を見せ、日没から閉廊までは制作風景のスライドを流し、そのスライドの光のみで会場を見せた。

■「絵のなか」に入る


白坂: 以前の会場制作で(Space Kobo&Tomo 2002年)、閉廊後も夜に制作するというので、離れて見学させてもらったことがありましたよね。αMでは夜間、どんなペースで制作していたんですか?

佐藤: 静かにしぃんとやってました。気持ちがちゃんと乗っているときは、終わりが近づいてくるとすうーっと潮が引いていくような瞬間が来るんですね。それがキャッチできたらふっと身を引いて、パステルを置けた瞬間がその日の終わり。なかなかそうはいかなくて、いつも朝になっちゃいましたけど。その時点での紙の散らばり方というのは「完全」なんです。乗っていたときの自分の手が残した跡は、後から再現できない。ですので、その瞬間が訪れて手を止めた状態を日々お見せしたという感じです。手を離すタイミングを見極めるときは、いつもすごく緊張します。湖面みたいな、物だけの静けさのなかで、少しでも自分が音を立ててしまったらもうアウトで聴こえない。ひたすら耳を澄ますしか方法がなくて、夜明けのなかで体をできるだけちっちゃくしてずっと見ている感じで。それは、絵に対して、自分が巨体になってしまったように感じる瞬間でもあって。絵の、世界での有り様に対しての武骨な自分の指とか、自分の体が絵からはみだしているのを感じるんですよね。どうしようもない物質としての自分の体を感じて、悲しくなる時間でもある。その感触は大事なんですけど。

白坂: あの私が張り込みしていた夜(笑)、終わりに近づく時間がなぜか見えて安心して見ていたのですが、そういう波が伝わったのかもしれない。αMでは、佐藤さんがパステルを置いた地点から臨場感を残して、見る人がコミュニケーションできる展示だったんですね。パステルを緑色に変えた理由はあります?

佐藤: 赤をずっと使ってきたんですけれど、GALLERY FAL(武蔵野美術大学内、2003年)(以下GFAL)から緑や青も使うようになりました。私は「絵のなか/絵のそと」というテーマで制作を続けています。もちろん、絵はこの現実世界のなかで限りなく物質であって、私の身体も限りなく物質であって、「絵のなか」に入ることはできない。けれど、ならばこの物質界のなかで、「私」や「私の名前」が消えて、絵を描く手と眼という物質としてだけ、私がここにいることができた瞬間には、お互いが「物質としての在り方」という地平で、ほんの一瞬絵とつりあえるんじゃないかと。その瞬間を「絵のなかに入る」と言ってしまってるんですけれども。物質の自分として、絵の一番近くのところに行きたい。ですので、紙にこすりついてるクレヨンや、描線でけば立ってる紙の表面の繊維とかが、もう羨ましくてしょうがない。静かに自分の身を消失させながら絵にすりこまれてゆくクレヨンとかオイルスティックに憧れます。それで、赤は自分の体液で描くような感覚、自分の身体がクレヨンのように削れていって絵のなかに入っていけるような感触を得やすかったんですね。そのために物質感を乗り越えられてしまったような錯覚を起こしやすくもあって、もし赤という色に助けられて絵のなかに入ったように感じているとしたらずるいというか違うなと思うようになりました。それから「自分」からうんと遠い色を探していて、緑や青を手にとったんですね。それで実際に描くとすごく絵が遠い。異物感があったんです。

白坂: 距離ができた状態で再び描き出した?

佐藤: はい。その異物感を感じる緑や青でも絵のなかに入る感触を感じられたとすれば、それはより自力で、助けなしで入れたことになるかと思って。それで緑や青で描くようになったんですけれど。でも、アトリエのなかでは、気持ちが弱くなったときとか、ずっと描き続けてゆくために、赤を自分に許すときもあります。

白坂: 緑や青って、底が深いけどペラッと跳ね返される緊張感もある不思議な色だなあと思うんですが、佐藤さんの絵を見ていると、このこすれあって塗り重ねられた緑や青はどこまでいくんだろうとも思います。

佐藤: GFAL(2003年)の時に会場制作していて、ふと離れて突っ立って絵(会場空間)を見ていたら、あれ、これどこかで見てる風景だなと思ったんです。個人的ですけれど、透き通ってしまうくらい悲しかったり、ショックを受け過ぎて泣けないときに、ばーっと心のなかに広がる湖があって。そういうときにしか開かれない、うんと遠くまですーっと広がる、海ではなくて湖。その場所に似てるなあと思って、少しびっくりしたことはありました。

■「絵のなか」と「絵のそと」を往復する


白坂: 描いているときは? 

佐藤: 描いているときは潜っていく感じで。描き出しの最初は潜っていくという意志的な感じなんですけれども、いい状態のときは潜るというより、落っこちてく感じで、こわいですね。描いているときは、ほんとは目に顕微鏡がついてるくらいの視界で、紙の繊維に絵の具が潜り込むところをもっとちゃんと拡大して、スローモーションで見たいんです。それで描いている指のところに目を近付けてしまうけど、いつも見えない。それもあって、からだがこう全部耳、という感じで耳を澄ませることに集中しています。描線が紙を傷つける音、紙と絵の具と指がこすれる音、筆圧で紙が破けてしまう音、その瞬間瞬間の音をこぼれることなしに聴き取りたい。紙にしてみたら描線が引かれるたびに痛い感じなのかもしれないけれど、紙が絵を受けとめてくれている時の音を確かめていたいです。あの、私、海女さんにも憧れていて。ほとんど布を巻いただけで、小舟からぼとんと落ちて、うんと深くまで潜っていく。それからばーっと海面へ上がって来て、「貝だよ」と、採ってきた貝をぽんと舟に置く。また、ふーっと深くまで潜っていって貝を採って必ず海面に戻ってくる。その反復に惹かれます。会場に置いた絵が、その海女さんがぽんと置いた貝みたいに在ればいいなと思います。

白坂: 潜る深さではなくて、浮上して手渡すところが大切。

佐藤: はい。潜りっぱなしなのではなくて、海面にきちんと戻ってくるところの場面が大切だなぁと。

■ともに展覧会を行うことで開かれたこと


白坂: art space kimura ASK?が海だとして広さはどうでした?

佐藤: はい。描いているときに歩く歩幅や描く手の動線に合ってベストでした。

白坂: あの2002年の展示では、描いているうちに絵の空間を広げるために壁をばんばん壊して、もっと外に拡げたかったと後で聞いてびっくりしたんですけど。

佐藤: ASK?では、自然光で描けたので、光が当たる部分と闇になる部分があって、そういう間があることで助かりました。全部が白日の下ではなかったので。

白坂: 内と外のコントラストもできて、自分のいたい場所も探せたんですね。ムサビの学生さんもいて、多くの人と展覧会をつくることはどうでした? 今まではギャラリストと佐藤さんの小さい関係ですね。

佐藤: 最初は戸惑いましたが、思いきって展示前の鎧を全部取っちゃって、担当の学生の方々と何度もやりとりするなかで、お話できることはほとんど全部お話したんです。そうしたら、私が展示でどの辺りを神経質に考えているか汲み取ってくださって、会場制作の間も安心して過ごしていました。時にはかなりの緊張状態でギャラリーの方と展示に入っていくこともあり、もちろんそれも必要なんですけど、間で社会的な面を完全にコントロールしてくださる方がいらっしゃるのはありがたかったです。

白坂: 柔らかい体勢で入れたんですね。孤独に制作する時間が必ずあり、同時にその間や経過にも人がいて、特に学生の方々の手探りの真剣さが過去の鏡のようにあって、自身がひとつ開かれたのではないかと思うんです。それがαMでの展示の成果なのではないでしょうか?

佐藤: はい。それは大きかったと思います。ほかにもギャラリースタッフはじめたくさんの方々のお力も借りて。そうですね、何かいつもと少し違う達成感がありました。

■「絵のなか」にいて「絵のそと」に立つ


白坂: その後の展覧会(Space Kobo&Tomo 2005年4月)で、作品を展示で留めて置いて去れるようになりましたよね。

佐藤: はい。αMでの展示で、これまで続けてきた会場制作がつながった気がして、今、自分がどこにいるのか現在地を知りたいと思いました。アトリエで、箱を作り、その箱の中をギャラリーの会場に見立てて、その中に頭をつっこんで箱のなかに小さくなった自分がいるつもりで描いてみました。また、自分がすっぽり入れるくらいの大きさの袋を作って潜り込み、それも自分がギャラリー空間にいるつもりで描いて、紙の袋からそっと出た瞬間の体の跡である紙のしわやよれを響かせるように展示しました。実際のギャラリーの壁を壊すことはできないですが、こんなふうにも広げられるという感じで。

白坂: αMの展示を経て、観客も落ち着いた距離で見られるようになったと思います。私は、会場制作を見て佐藤さんのひたむきさにはもちろん共感しつつも、絵がものになっていく状況ってどんなだろう、そしてものが発する何かを見たいと思っていました。それで、佐藤さんがいない状況でも、作品がさわやかに在ったのでほっとしたんですよね。ひとつひとつ足取りを残してきて、次はどうなりそうですか?

佐藤: また会場制作をしようと思っています。自分でやっていることを俯瞰してみた後の会場制作がどうなるか懸けているところがあって、こわいですね。変わらないかもしれないけれど、何か成長があってほしい。俯瞰で見る制作と、そのただなかに入り込む制作とを往復しながら成長してゆけたらと思っています。それを繰り返しながら、より純度の高い海女さんになれたらなって(笑)。

白坂: もう作品を独り立ちさせられたから、公開制作は卒業すると思ったらそうじゃないんですね(笑)。会場制作はやっぱり必要ですか?

佐藤: はい、「絵のそと」をより鋭く感じるための環境として、作品をアトリエの外の空気に触れさせながらつくることを今は必要に思っています。なおかつ展示会場と制作場を同じくすることで、「展示するための設置の手」ではなく、「制作の手」だけで、展示会場を満たす(触る)ことができるように思います。

白坂: 一足飛びにせず、立ち止まってはまた進み、それを繰り返す。作家や作品に砦はなにがしか必要だと思うけれど、守ったりさらけ出したり、自分で確かめていくなかで、思わぬ地平に出ることもありますよね。そうやって行く手を見極めているような気もします。

佐藤: ほんとに遅いなと思うんです。生きていてひとつのことしかできないなって。ちょっとずつしかOKが出ないので、ときどき果てしなく思います。同時に、頑にして制作を歪めてしまわないようにとも思っています。

白坂: 佐藤さんにはあたりまえのことで省けないんでしょうね。長距離が好きだから人生の時間が足りるのかと思うけど、きっとその分足は速いと思う。絵を描くことで生きていく枝葉が伸びる人だなあと思います。