TEXT - ・アーティストトーク -自作を語る鷺山啓輔

■はじめに

私の会期では、ギャラリートークに替えて、実験的なパフォーマンスを行いました。それは、詩人:陳 樹立さん(詩)と私(映像と音楽)のコラボレーション・ワークです。「湖の上でその不穏な空気に凍り付く瞬間」をキーワードとして、「詩の朗読」「35mmフィルム写真のスライド・ショー」「アコーディオン演奏」の3つの要素で構成された20分程度のパフォーマンスとして発表しました。パフォーマンスは、あくまでその場で完結したもので、この場に朗読した詩の内容を掲載する事は避けさせて頂きました。その分、この場を借りて展示作品と私の制作について語ろうと思います。

■千葉への釣りとフローター

Nと、千葉へ行く。深夜眠れず、興奮していた。そのまま、N家にバイクで到着して車に乗り換える。眠い眠い出発。首都高をとばして湾岸へ、降りたインターの名前は何だったか忘れてしまった。首都高は何度行っても感心してしまう。ああいうものが都市の中枢を走っているのを見ると、やっぱり東京は大きくてごちゃごちゃしていると思う。くすんでいて、汚れた内蔵のようで、フランス映画は、よくうねうねした高速のトンネルから始まっていた事を思い出す。そう話しかけるとなんとなく、相手も頷いていて。そんなこんなでたわいもない話をしているうちに、千葉に到着した。最初のダムがまた、ナイスな選択だった。人一人いない。釣りの準備をしていると、そこへおかしなランニング集団が、10名程列をなして現れる。私達をちらりと横目に見て、そのまま通り過ぎてく。ダムの丘の下で体操を始める。体操後、何か呪文を一人が唱え始めて、それをみんなが呼称する。呼びかけ式の体育会系的な声が、少しずつ大きくなっていく。三十分程続いたように記憶している。何か宗教的な感じがして、そのうち怖くなってきた。でも、聞き続けているとそれが、どうやら新入社員か、営業成績が悪い人達のための課外研修という予想がついてくる。意味のない行事のように思える。私達は、自然に釣りを楽しみに、もう一方は自然の中で反省。少し辛いし痛かった。場合は違っても、森や湖が必要な事に変わりがないのは実感。

その後、人生初めてのフローターという釣り用の浮き輪に乗る。防水性のダボを着て、足ヒレを履く。入水と陸に上がるときが一番危ないと聞き、慎重に、足場を確認しながら、入水。下半身がダムの水の冷たさでひんやりとする。なんともいえない感覚。水にはもちろん濡れないのだが、下半身は、くすんだ緑の湖面の水面下にいる。上半身は浮き輪の上でいつも通り。体が分断されたような感覚で、なんとも不安。自分の足はうっすらとしか見る事が出来ない。沈んだら大変。落ち着いてくると、自分がとても新しい視界を得ていることに気付いた。低い。広い。水面にすれすれで、ボートとも、平泳ぎとも違う。いままでにない頭の高さ、その高さでゆらゆら湖をどこへでも移動できる。回転できる。感動的だった。カメラを持ってくればと後悔。そのときはあきらめた。人の入った形跡も少なくいかにも釣れそうな雰囲気。だが、釣れずじまい。岸に帰って、カメラを持って、再びダムへ。湖面にのんびり浮きながら、写真を撮った。面白い。レンズは、広角のみだったので、フローターの機動力は、かなり利いていた。満足。

結局、4、5つの池、ダムを周遊。昼食に向かうとき車を運転させてもらった。万事順調だったが、一度だけ道を間違えた。さびれたアミューズメントパークに入ってしまうところだった。何かに呼ばれていたのなと思いつつ。以前から思うが、千葉の田舎というのは何か、どんよりしている瞬間がある。むろん、旅は心地良いのだが、やたらに、鳥居を発見してしまったり、気になる石が多かったり、何より緑が深い。うっそうとしている。それぞれ勝手に生い茂っている。ふと、思う。水の上を霊が彷徨っているとしたら、フローターの視界を横切らないか?それとも、水面下に?足下に何があるか見えない不安と、水面との近さ、体の浮き沈みの不安定さが、そう思わせている気がしている。風や、霧や、虫が、その高さを移動していることも原因か。水の音、岸の木々の音、鳥の声も普段より敏感に届いてくる。フローターの視界と身体感覚は、刺激的な体験となった。また、浮きたい。浮くという状態は興味深い。浮いているからには、どこかから足の先か、体の先が離れているわけで、また、どこへでも自由にいける。連れ去られるという可能性もあるけど。浮くには、やはりなんらかの力が必要で、人は、浮き続ける力はない。新興宗教の教祖が浮いていたりするけど、まあ、怪しい。飛ぶ夢を時々見るけど、私の場合はいつも低空飛行だ。地上すれすれで、ゆっくりと浮遊している。あっちへと心で願うと、体がそっちへ動いていく。意識と体の反応にはタイムラグがある。ちょうど、私も今、浮けるような気がしてきている。次へ向かって、何の力で浮くのか問題だが、その先をじっと見つめて。

撮影日誌より 2004年4月28日(水) 鷺山啓輔

■「風景の獲得」

私は、ときおり何かしら忘れる事の出来ない風景に出会います。それらの多くは、旅中に出会う自然の風景で、あまり人の寄り付かない山、森、川、湖等の静寂さに満ちた場所です。その場所を、まず写真に収め、後に興味深いものは日記のような形で文章として自分の中に定着させていたりします。今回掲載した撮影日誌は、”A Revolving Floater”の制作の動機となったものです。その動機から始まる、作品の制作過程や思考について触れていきます。

制作過程を端的に言えば、撮影日誌が出発点となり、そこからその土地や湖に関するリサーチ、次に撮影(再びその土地を訪れる)、編集、音響制作、空間構成を経て作品として完成に至ります。本作は映像を主としたインスタレーションであり、日誌中の原体験を、展示空間に再構築しようと試みています。原体験は、五感によって獲得されたものです。それをまず、ビジュアル(写真)と言葉(日誌)で記録します。その記録のみで、その風景を再現する事は出来ません。素晴らしい風景に出会っても、写真や絵だけでその美しさを誰かに伝える事は、なかなか難しい。私にとって「風景を捉える事」は、言葉とヴィジュアルのみでは捉える事の出来なかった、本来そこにあったはずの「失われた感触」を取り戻す・探る行為です。そのために、制作過程の所々で、真摯に風景と向かい合う姿勢を大切にしています。そうして、風景から語るべき事物が導きだされ、うっすらと物語が構想の中に生じます。

この物語を私は大事にしています。その物語を言葉でいえば、「恐ろしく静かな湖面に、孤独に浮かび漂う事のはかなさ」という表現が近いように思います。投影される映像は、湖に入水するところから始まって、最後は、岸辺の林の上を旋回する鳥のシーンへと繋がります。すべてが湖面に浮かぶ何者かの主観的なショットで構成されています。作品を観ている人が、その主観の主となれればと考えています。物語は、語り手の存在があって成立します。本作の語り口は、託宣のようでもあります。人に取り憑いた霊がその経緯や怨念を語りだす。そうしたのは、湖面を漂う不穏な空気を、ある瞬間、霊的なものに感じたためです。早朝のまだ暗く黒い湖の方がその雰囲気は顕著で、暗闇は人を不安な気持ちにさせ、また想像の余地を拡げるのだなと実感します。こういった不穏なシーンを通り過ぎると、ちょうど、朝日が昇り始め、輝く湖面の表情が映し出されていきます。この湖面の2つの表情のうつろいが物語を予感させるものであり、そこに風景のもつ幽玄な美しさが隠されています。

また、投影形式も重要な要素です。これは、私の他の作品にも共通しています。映像自体の存在感を高めようとする試みです。本作ではフローター(釣用の人が乗れる浮き輪)にのって自由に湖面を移動し、軽く浮き沈みを繰り返します。そうした視界と身体感覚の「浮遊感」を表現するために、回転式の投影方法をとっています。プロジェクター自体が自動で回転します。真っ白で無機質なギャラリー空間内の壁を、ゆっくりと水面の映像が移動する。そこに2、3分間留まって映像を観てくれれば必然的に、平衡感覚が乱され酔ったような気分に。それが、浮遊感へと繋がります。撮影中湖面を移動していると、水中の足に沈んだ流木が当ったりして驚かされました。その流木は、床に設置しています。撮影時に使用していたフローターも、映像の湖の水位と同じ高さに設置。展示空間自体がその湖であるかのように感じます。こういった立体物が入り込む事で、身体感覚の変化や空間的な錯覚が生じ、それが映像自体の存在感を際立たせればと考えています。

ここ数年来、このような過程を経て「出会った風景」を映像インスタレーションとして再構築する作品を制作してきました。ナレーションをつければ、ドキュメンタリーとしてより明確に伝える事が可能なのかもしれませんが、あまり意味を見出していません。私は、海洋・山岳ドキュメンタリーが好きです。冒険記や実録集にも、深く感銘を受けたりします。ドキュメンタリーの中で出会う風景の価値は、新鮮さであり、誰も観た事のないものを疑似体験する、または知識として得る事です。だからこそ、20世紀のドキュメンタリー作家や民族学者達は、前人未到の地へと足を踏み入れました。世界中いたるところに、カメラが潜入し、映像記録と研究成果が公開され評価されてきました。しかし、冒険の時代は終焉を迎え、現在は当時のような価値を見出しにくくなってきているように思います。この点で私は自身の体験を映像化する事へのひとつの限界を感じています。私は冒険家ではないし、その立場から風景を語ってしまう事には注意を払っています。むしろ興味があるのは、映画の中での風景の登場、表現方法にあります。映画の中で出会う風景は、そのシーンが訪れるまでに、様々なシークエンスを通過します。それらは、物語の内容、登場人物の感情等、多重の層の積み重ねによって、風景のもつ価値を獲得しえます。また、その逆も存在します。冒頭の風景が、映画の結末を思わせるような周到な構成を確立している映画も多く存在します。コーエン兄弟の映画「ビッグ・リボウスキ」の冒頭では、球体状の枯れ枝がのんびりと風に吹かれながら荒野を転がっています。町を通過して、誰の目に触れる事もなく、美しく輝く海辺の砂浜へと辿り着きます。本編の一件脈絡のない事件とその積み重ねによって発生する奇跡に満ちた結末を案じさせます。リンチの映画「ロスト・ハイウェイ」の冒頭では、ただひたすら、黄色く怪しくぶれながら猛スピードで流れていく車道のセンターラインが、映し出されます。映画全体に漂う「一寸先は闇」的な、日常の中に突然不可解な出来事が起こる恐怖と緊張感が、見事に集約されています。非常に秀逸な映像表現として記憶しています。

私の作品は、自身の風景に関する体験から出発する点において、ドキュメンタリー的な面があります。それが制作過程の中で物語性を持ち、立体物・音響と組み合わされインスタレーションとなり、映像特有の時間軸を持ちます。映画の冒頭のように、断片的にイメージを繋ぎ合わせる事によって、その裏に隠されている物語を表出させる。予感させる。それが、作品をみてくれる人達それぞれの感覚を通して「映画的な風景」へとなり得れば、幸いです。