岡部あおみ: 今回のαMプロジェクトの第一回展は、近藤正勝さんの日本におけるはじめての油彩の展覧会です。
これまで日本で出品された作品は、東京オペラシティアートギャラリーがオープンしたときの開館展で、大きな山を描いたアクリル絵画でした。去年、私はロンドンで、リーフレットに掲載されている遠景に山が描かれた『APPREHENSIVE PASSAGE』という3メートルの赤とオレンジの色調の油彩を見せていただいて、大変驚きました。当時その作品はすでに売却されており、αMの個展のために東京にもってこられなかったのですが、今回展示されている作品はそれ以降のすべて新作ばかりです。今回展示している作品1点1点が、大変チャレンジングで、非常に異なる様々な感覚や意味をもっていて、とても見応えがあります。たとえば、『BAT’S HOUR』(こうもりの時間)という作品には、血が滲んでいるような怖さがあったり。また正面に展示されている油彩の『IDYLLIC GARDEN』は、さらに今までとは随分違うイメージがあると思うので、そのへんの作品の違いについて、まずお話いただければと思います。
近藤正勝: 約半年前に岡部さんからお話をいただいて、半年で準備をしたわけですが、油絵を描きはじめてまだ1年くらいだったので、自分の状態がまだそこまでクリアになっていないときでした。油絵になってから数点、自分でも納得のいく作品はあったのですが、まだ試作状態の段階で、今回6点もってきました。この中では『IDYLLIC GARDEN』が、1番最初に描いた作品です。日本に来るから日本の風景を描こうと思ったわけではなく、自分の中でも近々描く予定はありました。僕の作品の対象は、だいたい人の撮った写真が多いのですが、これは珍しい1点で、自分で撮った写真からおこしています。こういった、すごく日本的な対象を描くということは、自分の中で大きな問題でもあります。というのは、西洋で日本的な内容を扱った作品を見せる場合に、いわゆる、オリエンタリズムとして捉えられる可能性が非常に高いという部分です。そしてまた逆に、こういったものを日本で見せたときに、あまりにも日本的なところへの嫌悪感が日本にはあると思います。それはたぶん、日本が、西洋に対してある種のコンプレックスを持っているということに根ざしているのかも知れません。ですので、この作品を日本で見せるということは、とても意味があると思っています。例えば、海外で僕の山の作品がすごくいいと言われても、それはオリエンタリズムで捉えられている危険性があるからです。
岡部: この作品はまだロンドンでも発表したことはないわけですね。
近藤: 個人的には見せているけれど、発表はまだです。この作品からはじまって、山の作品『REFLECTED MOUNTAIN』を描きました。その作品はいつも通りのことをやってみようという感じです。油彩で、何ができるか、どう描けるか、いつも使っていた自然のランドスケープをやってみたという感じです。そしてその後、『BAT’S HOUR』を描いて、今まで僕の作品ではコウモリなどの生命が描かれることはなかったのですが、そういったものを描くことによって、ぎりぎりのところでのストーリー性を導入して、逆に抽象的な意味の広がりを持たせることができるのではないかと思っています。今までの僕の作品は、出来るだけそういう詩的な部分を排除して、見て感じるだけというぎりぎりのところで考えていたのですが、もう少し違う、見る楽しみというものを含みたいと考えています。それと同じように、『SANCTUARY』では、こういったストーリー性とまではいかなくとも、見た時の抽象的な意味の広がりが、作品を何度も見たり、表面を確かめるという作業を促進するのではないかという気がしています。
岡部: たしかに、かつてはほとんど動物とかは登場していませんね。山の場合は山だけというじつにクールで禁欲的な面がありました。
近藤: そうですね。感情移入というのがほとんどできない作品を作っていました。
岡部: 近藤さんは名古屋出身なのですが、ちょっと町はずれの、愛知万博の会場の近くで育ったそうです。小さいときからそうした自然の中で生活していたから、野生動物の生態にも詳しくて、動物などがどこにいるかとか、不思議なことがわかるそうです。子供のころなんかみんなで遊びに行くと、川の中にいる亀なんかをバッと手でとって、みんなが仰天するということがよくあったそうですね(笑)。動物との共感というか、昔からのそうした共生の感覚を絵画に入れてもいいのかな、と思い始めたのでしょうか。
近藤: もともと、山だとか自然だとかが対象になっていった根本的な理由は、子どもの頃の記憶が何らかの形であり、自然にそういうものを選ぶきっかけになっていったとは思います。でも本当は人間まで含みたいのだけれど、そこまでいくともっとストーリーとか意味性が強くなるので、すごく気をつけてそこまでいきたいという感じです。
岡部: 英国に行ってから、最初に制作した頃の作品は、風景とは限らなかったのではないでしょうか。先日、大学のレクチャーで近藤さんの初期から現在までの作品の数々を見せていただいたのですが、作風もかなり変化していますね。初期の作品は色彩もあまりなくて、どちらかというとモノクロ写真のようでした。それがここ5年ぐらいの間に、驚くほど華やかな色彩を使い始められています。素材として写真を使用しはじめたときに、各写真がもつ繊細な感覚を受け取りつつ仕事を進められたわけですが、次第に、ご自分の絵画の枠を脱出するために写真を使い始めたとおっしゃっていましたね。そして今は、また原点に戻ったということでしょうか。
近藤: そうです。今はまた一周してきたというかんじで、もともと写真を使う前に、自分のブラシストロークだったり、ドローイングのラインがあまりにも自分であって、それへの嫌悪感、そこから抜け出せない自分、また同じラインを引いてしまう自分から抜け出すため、写真を写すことで個人的なラインを排除する、という方法をとりました。それはゲルハルト・リヒターがやっていることと同じで、絵画上の理想を捨てるということをやっていたのだと思います。そういう中でずっとやってきて、自分の作品は具象でありながらも、コミュニケーションとして最低限のことしかやっていない、すごく作品がミニマムな状態であったと思います。そのまま10年近く作り続けていく中で、そういった厳格なところで作品を作っていくことに限界を感じました。そこでもう一度自分のラインだとかを考え直して、そちらにいってみたいという気がしています。
岡部: 『IDYLLIC GARDEN』は、色彩が非常に抽象的ですから、私の知り合いが見たときに、「カラーポジのネガみたい」と言っていたのですが、今回の新作群を見て、さらに色彩の使い方が違ってきたと思いました。今の近藤さんにとっては色彩も新しい要素のひとつとなりつつあって、色々試しているところなのでしょうか。しかも『IDYLLIC GARDEN』は日本で撮った日本的な写真なので、あえて色彩を抽象的にしたということですか?
近藤: そうです。そういうところで、イメージを超えて絵画性というものを強調できるのではないかと思いました。
岡部: スレードスクールオブファインアーツというロンドンにある美術学校で、絵の勉強をなさったわけですが、近藤さんと同世代の人たちが、今イギリスで画家として国際的にも活躍しています。近藤さんは、同世代の英国にいる作家たちを間近に見ていて、日本で絵を描いている人たちとの違いを感じられましたか。
近藤: 違いと言うと難しいのですが、やっぱり日本の作家の多くが、まだ、日本人がオイルペインティングをはじめたということを抱えちゃっている。本当はもう抱えなくてもいい時代だと思うけれど、みんな西洋もきちんと勉強した上で、でも西洋人じゃない自分を探している、という葛藤を感じますね。でもヨーロッパの作家はもっとナチュラルに、歴史と関わったり、それを断ち切ったりということを素直にできる状況があると思います。それがやっぱり日本から見ると、うらやましいところでもある。でももう少し日本もその点自由にやったらいいと思う。あまり観念的に捉えるのではなくて、日本を抱えるのではなくて、一個人として西洋の歴史とかを消化しちゃえばいいんじゃないかという気はしていますね。
岡部: とくに今、具象の仕事をしている人の多くは、写真を使っている人が多いと思います。最近読んだ本で、ヴィレム・フルッサーという写真論を書いているチェコの人がいて、彼は写真とは画像であり、装置であり、プログラムであり、情報であるという4つの要素を提起していて、画像といっても、装置を通して写真のような画像になるものをテクノ画像といっています。その人の写真論を読んでいると、結局、ひとりひとりの写真家以上に、装置自体に素晴らしい想像力があるということを書いているのですね。現在の私たちは、テクノ画像に過剰に取り巻かれて生活しているわけです。実際に今絵を描いている人で、そうしたプログラムされた画像、とくに大衆に向けられている情報というテクノ画像を使って作品を作っているという状況についてはどうなのでしょう。写真と絵の問題ということですが、近藤さんは、それも当然自然にやっているということですか?
近藤: ヴィレム・フルッサーの言うカメラの持つ4つの要素、また装置自体の素晴らしい想像力とは機械がクリエイトする必然から、ある種の標準化をする作業だと思うんです。共通言語をつくるような。絵画はそれをもう一度、個人の言葉に置き換える作業に近いのではないかと思います。機械ができるある一定のクリエイティヴィティを通して、客観表現したものを、もう一度主観的なところにもってくるという作業なんじゃないかな、と思います。
岡部: 会場の方々からも、何かご質問があるのではないでしょうか。なにかあればどうぞ。
会場: デジタル画像のお話が出ていましたが、画像をデジタル化したときに色というものがかなりはっきりと分離して、原色に近いかたちで粒子状になると思うのですが、それを近藤さんの絵から感じました。デジタル画像のような混ぜられていない原色の色の対比と、近藤さんの絵画の色彩との関係についてお聞きしたいと思います。
近藤: もともと山の作品から、コンピューターの画像のでき方に興味があってはじまっているので、いつもコンピューター上での色に影響を受けながら作品を作っています。デジタル画像のほとんどはブラウン管なりスクリーンを通して見る。それは、発光体の色で絵画上では現実にならない。その中で、いわゆるブラウン管で見ているような状態を、どうカンバスにうつせるか、というのは興味があって、いつもトライしていることじゃないかなという気はしています。それは僕らが持った新しいヴィジョンで、ある種の新しい価値観ではないか。そういうような、自然じゃないものを人が愛するということに対して興味があります。
岡部: 記憶とか、そういうもののイメージを反転しているような色がありますね。
近藤: リアルだとか自然の対極に、人工的なものがあって、それをどう表現するかということは、自分の中で大きな意味を持っています。
岡部: イギリスの風景は、郊外に出ると、とても素晴らしいと聞いているのですが、そうした実際のイギリスの風景などからもインスピレーションを受けることはあるのですか?
近藤: いや、イギリスの風景は基本的にグレーなので、色彩はかなり貧しいです。だからホックニーもそれが理由でカリフォルニアに行ってしまって、でも今また帰ってきて、ヨーロッパのほうが色彩の繊細さのバラエティをもっているという捉え方で絵を描いている。色のインパクトとしては、色彩豊かというかんじではないので、そこからの直接的な影響はないです。でもだから逆に色彩に興味があるのかもしれない。
岡部: 他に何かありますか?
会場: 先程、オリエンタリズムというお話があったのですが、最近種類は異なれど、いろいろなかたちで、日本的なものを見直すという表現が30代、40代の作家の中で増えてきていますよね。村上隆さんですとか、山口晃さんですとか、ある意味日本的だと私たちが感じられるものだと思うんですよ。近藤さんにとっての日本的なものとはどういうものなのか、また、ロンドンでお住まいになっている中で、国内の状況をどうご覧になっているのか、お聞きしたいのですが。
近藤: 日本的な部分ということでは、僕はそんなに努力はしていません。例えば『IDYLLIC GARDEN』を描くときでも、山の絵を描くときも、日本的にしようと思っているのではなくて、出てきてしまう部分でやっていますし、そういうふうにやっていきたいと思っています。日本を考えて、日本を背負って、日本的な美をということでは、僕としてはつまらない。自然に出てくる範囲以内でやりたい。僕はできたらあの山の作品のときに、本当はもっと西洋的なものをつくりたかったのかもしれない。だけれど、ああなってしまった。ひょっとしたら、日本画だったかもしれないと思う。そういうことになってしまう、ということが良かったと思う。それを、日本だからああしてみました、こうしてみました、という意識では、ダイレクトさに欠けるのではないか。でも、その一方で日本を逆手にとって世界へ出るという方法論があってもいいと思うし、そういうものが世界にはたくさんあるとも思う。でもそのやり方を、作家が気をつけてやっていかないと、誤解されたオリエンタリズムで終わってしまうと思う。とにかく絵画に限って言えば、戦略やアイデアで描けるものではなくて、絵の具(ペインティング)で描くものです。つまり日本ということも作家個人の絵画的問題のなかに必然的に折り込まれていくものではないでしょうか。
岡部: 近藤さんはムサビでの課外授業のときだったか、少人数で話をしていたときだったか、ふと、「僕は日本のために絵は描かない」とおっしゃったんです。その言葉が私にはかなり衝撃的だった。その意味が今よくわかりました。
近藤: 海外で作品を制作して人に見せると、やっぱり最初は日本人になってしまうことが多いと思います。僕が個人として作品をつくって見せても、違う人種に会った場合、人はまず違う人種、レース(race)、で対面すると思うんです、実際は。それが時間が経つにつれて、個人というものを理解してくれるようになる。レースファーストで、いつも人は会う。日本国内でやっていれば、レースという問題がないので、いつも個人というところから入れる。別に、東京の人だからどうだということはないと思うのだけれど、ロンドンで、僕が見せる、クリス・オフィリが見せるということになると、日本人が、黒人作家が、見せているという視点が入ってくるのは避けられない。だからといって僕は日本人作家だ、ということを言えばいいのではなくて、まず現実として、日本人として人に会うということはある。だけど、そこから自分をどう個人のところまでもってくるかということだと思う。それには時間がかかるし、一点で対処できる問題ではないという気がしています。
岡部: ただ、日本で制作していると、ある意味で自然に日本を背負う、意識せざるを得ないというところもあるし、逆に国際的に出ていこうとするときに、日本というものが戦略になるか、あるいは自然に日本的なものとして出ていってしまう。そうしたものに関しては、出していってもいいのかな、という気もします。ただそれが無自覚か、戦略的かのどちらかで。でも、日本のためには描かない、とはっきり言っている人が日本にはどのぐらいいるのだろうかと思って、はっとしたわけです。
近藤: でも、例えばクリス・オフィリが象の糞の上に作品を置いて、白い壁に絵をかけない、それは西洋人の文化だから、ということを黒人作家の代表のようにやっているのなら、意味がないと思うんです。それをクリス・オフィリという個人がやっているから意味がある。美術の世界の中で特別視されるとき、個人としてどういう作品を発表するかが重要なことではないかと思っています。
(テープ起こし:小澤友美)