岡部あおみ: 今、暖炉の中では焼き芋が焼けつつあります。トークが終わった頃にはほっかりと焼けてるのではないかと思います。出月秀明さんにとっては今回で三回目の「アランの毛糸帽子会議」になります。アランの帽子の由来についてですが、アラン島というアイルランドの島にいる女性達が、奥さんや娘さんたちですけれど、海の男達のために編んだセーターのことを言うらしいんですね。私もその由来を最初、富岡妙子さんが書いていた短編を読んで知って、空想を駆り立てられました。男性が海で亡くなったときでも、靴下やセーターを身につけていたら、編んだ人の編み方などで人物を判定できるということだそうです。でも今回のトークのときにもう一度、富岡さんの「セーターからジョイスへ」という短編を読み直してみたところ、実際はアランセーターというのは、英国のガンジー島が由来で、アメリカに移住した人がそれを発達させたらしく、もともと紺色だったのが白くなったり、どうも海の男のロマンチックな話自体が、ある意味では伝説にすぎず、誰かがフィクションとして考えたのかもしれないという結末でした。素敵な話だと記憶してしまっていて、事実を知り多少がっかりしたのですが、フィクションと事実が混じり、地名や土地にまつわるイメージを形成することもあるわけです。出月さんがアイルランドに行かれて、セーターではなく帽子を虹のかけらのように見つけたというところから、このプロジェクト始まっているとお聞きしたのですが、それについてまずお話いただければと思います。
出月秀明: わかりました。その前にまず、本日は皆さん遠いところからようこそおいでくださいました。展覧会を企画してくださった岡部先生、戸田さんを始めとするスタッフの方々、展覧会を手伝ってくれたみなさまに、まずは感謝の言葉を捧げたいと思います。 これからギャラリートークを始めるんですけども、一生懸命話しますので、短い時間ですけれども、よろしくお願いします。今、岡部さんが話された話を聞いて面白いなと、アランのセーターが実はフィクションだったという、たぶんそれと私の作品も少し近いかなと思うんですね。アラン島で受けた印象、私はそこで、初めて虹のたもとというのをみたんです。虹の生まれるところ。大したことはないかもしれないんですけども、私にとってはすごく良い、すばらしい経験でした。大変感動しまして、これをなんとかみんなに伝えたいと考えたときに、この展覧会をしてみようと思ったんです。偶然、そのとき帽子を手に入れ、5つの帽子、リーフレットの表紙にある帽子が、そのドローイングです。それを、私の友人とか知り合いに送って、一緒に招待状を付けました。それで会議を開きましょうというのが展覧会の始まりです。ここでちょっと困ったことと言うか、考えなくちゃいけないことが起きました。私が経験したことは、自分だけが分かっていることで、他の人に伝えるのがすごく難しい。芸術家は例えば自分の経験したことを作品に置き換えてみせますが、私はそういう方法は取りたくない。そうではなくて、アラン島の経験と同じような経験を展覧会場でも作れないかと考えたんです。だからといって同じ状況をつくれるわけではない。じゃあどうしようかと思い、皆さんや我々がもの作るきっかけになるのは、ある風景に関わっているんじゃないか、そういう風景があるからこそ、私達はものをつくりたくなるのではないか。そういうものをつくる風景というか、それをいかにして思い起こすか、刺激することができるかを考えたときに、都市で火を見せることを考えついたんです。それが、この展覧会の始まりです。
岡部: 普通の家屋の室内で暖炉があるのは、ある意味では、ありきたりというか、普通ですよね。でも、ギャラリーとか美術館で本当の火を見せるのはかなり至難の業です。若い頃にイタリアでしたが、クーネリスというギリシャ出身で、イタリアで活動しているアルテポーヴェラの作家が、ガスバーナーを使ってギャラリーで生の火を燃やしているのをみて、かなりショックを受けた経験がありました。いつか私も火を使う展覧会をやりたいとその頃から夢見ていたわけです。出月さんと一緒に展覧会をすることになったとき、クリスマスも近いですし、ぜひ暖炉をやってみましょうという感じになりました。ただ実際に、暖炉をギャラリーに入れる段取りのなかで、煙を排気するために、ビルの屋上から60cm以上の高さまで煙突を建てねばならないと消防法にひっかかるとか、排気がうまく出来ないと中毒でみな死んでしまうとか、だんだん現実的な問題が山積みであることが分かってきて、1年前から青くなってしまったんです。「大変なことをやり始めてしまった!」。その結果、出月さんの作品はこの個展会場だけではなく、外にもあることになりました。つまり13mもある煙突を付けたのです。今回の個展の会期以前に出月さんは煙突を建てたのですが、寒いし、普通は煙突の周りに防寒用の特別なものがついているらしいのですが、今回は無いですから、周囲から冷えて煙が逆流するという話も聞き、最初に火を焚くまで青くなっていたわけです。素敵な暖炉も、みなさんが座っている椅子や机も、家具みなはデザイナーで建築家の中村好文さんから協力出品していただいたものです。中村さんの暖炉を扱っている憩暖さんという暖炉会社の方々が、設置するために、大阪の製作所から朝5時に起きてトラックで運んで持ってきてくださいました。煙突とドッキングするときに、作品があるためセキュリティの問題があり、ベランダに出る扉は煙突をつけたままで開けておくことはできないので、夜は閉めるために、暖炉の専門家の彼らにとっても初めて、取り外しのできる煙突ジョイントを作ってくださったというように、暖炉ひとつを設置するだけで、ものすごくおおがかりなことになりました。そして、はじめて火をいれて、煙が逆流せずに昇っていったときには、もう涙が出るほど感激したという感じでした。感激して、その後も会場に何度も足を運んでしまいました。
出月: 火を使うことが一応色々大変だったんですけども、観る人にとっては関係のない、裏話的なことですよね。なぜ火を見せるかについては先ほど言ったんですけども、その人の持つ風景、ファンタジーはどういうものだろう。ただそれだけでは伝わらないと思うし、何回か展覧会をしたんですね。最初モリスギャラリーという昔は銀座七丁目にある二面がショーウィンドウ、つまりガラス張りになっているスペースでやったのですが、そこはビルの抜け道になっていて、よくビジネスマンが通るんですよ。そのガラス張りの中にぽっと火が燃えているような場所を作りたい。ギャラリーに入っても、通りすがりに見てもいい。ただそこにちょっと違った世界がある、その火を見ることで、「あっ」と思って通りすぎて、その後に、その人が家に帰って例えば奥さんに話をして「いや、実は今日銀座で火を見たんだよ」と話をして、それが相手にされなくて、そういった何かありえないようなものが、日常に入り込んできたときに、その人の考えとか、経験で、何らかのものが作れないかと。「アランの毛糸帽子会議」という名前がついているんですけれど、さぁ会議をしましょう、さぁ帽子をかぶりましょう、というのではなくて、ただ火をみて、自然と人が集まり、人が座って火をずっと見入っている。それでただ時を過ごしてそのまま帰っていっても良いし、次の人が来てその人と話をしているときに、始めて距離感が生まれる。これはどういうことかというと、普段こういう蛍光灯とかじゃなくて、ギャラリーで火を焚く時に、普段と違って火を囲んだ時というのは、例えば無口な人が話を始めたり、普段饒舌な人が急に無口になったり、そういう経験があると思うんです。たぶんこういうときに、人は自分たちの何か風景に関わっているんじゃないかと思うんですね。そこにこの展覧会を作る意義があるんじゃないかと私は思っているんです。それだけではちょっと補足が必要なので、ただ火を観ているだけではいけないので、写真と文章を入れています。もちろん、招待状があり、もう一つ蛍に関する話、旅先での話、普段の生活の中からの話と、いくつかの話を織り込めて、写真と一緒に組み合わせていく。写真は私が風景に関わっていきたいというときに、一番風景の端っこにあるものはどういうものだろうかと思って、自分が行ける一番ぎりぎりのところ、その先端で撮った写真を使っています。あと日常の中にある、ふと抜けていくような瞬間を感じたときに写真を撮っています。そしてもう一つ、なぜ文章をつけたか、その文章は内面的なものだと私は思うんです。ヴィジュアルで見ているんですけれども、ただ本を読んでいるときは、そのヴィジュアルをカットすると私は思う。つまり良い本を読んだとき、その本の中の状況を思い起して、自分で頭の中に風景を作っていると思う。そのときに自分たちの風景というか、世界を、本の中の世界と絡めて本の内容を理解している。本にはその内面的な影響を与える力があると私は考えています。それで文章を作ってみました。例えば、ホタルの話は、親と子の何気ない話で、街から帰って来る時に、谷間へと車を走らせて車を止め、二人でホタル狩りをして帰ってくる。ごくささいな経験ですけども、子どもにとってはかけがいのない経験だったと思えるわけで、それを大事にずっととっていて、心の中に残していたんですけれども、いざそれを自分の父親、お父さんに話したら、実はお父さんの方は全然覚えていなくて、そんな話あったんだっていう感じ。でも、これこそが何か自分達の持っている風景ではないかと思います。ささいなこと、でもそれがかけがえのないものとして自分の中に残ってくるもの。そういうものをどうやって思い起こすことが出来るのか、それが、私がこの展覧会を作っている理由です。
岡部: 出月さんの場合、例えば、そのホタルの話にしても、ご自分の実際の経験というだけではなくて、ある意味で自分がそういう風景などを、小さいころの思い出のように、何かを思い起こせるような一つのフィクションでもあるということでしょうか?いくつかの物語や文章を今回も展示してるんですけども。
出月: フィクションという一つの文章を書くのは、まず、他の文章は自分の考えていることにうまく合わない。自分で書いてしまった方がいいなというので、そのホタルの話に関して言えば、自分の経験ではないし、他の人からちょっと聞いた話を膨らませて、自分なりに作っています。そこに関わる話は、何気ない話だけども、よくあるような話ではなく、経験をかけがえのないものまでうまく高めるというか、具体化させるために私が文章として書き起こしたものです。
岡部: 今回の場合そういう作品がいくつかあって、それともう一つは写真ですけれども、必ずしも写真も、文字で描かれたストーリーのイラストレーションのようなイメージとも違うんですね。両方のかかわりの間にもフィクショナルな感じの関連がありますよね。
出月: ええ、そうですね。私がものを作って何かを問いかけるんですけれども、皆さんの風景の中に私は入っていくことができない。であれば、本を読むのと同じように、そのかみ合わないところ、かみ合わない同士を少し近いところに置いておいて、そこから皆さんのなかで新しい風景をつくってほしいと思っているんです。だから、少しあわないようなところが入っていても、その奥にあるものは、近いものではないのかなと。ただ、その良いものを、良い映画とか良い作品とかを見に行ったときに、その作品から人は離れていくような気がするんですよ。その場から離れて、自分の中の何かを思い起こすようになっていくといい。だから、そういうふうに、私もものを作っていければいいなと思っています。声高にこれはこうだと言うのではなくて、こういうふうな入り口があって、そこから色んな解釈をしていって欲しい。それを私の方法として作っているんですね。
岡部: もう一つはインスタレーションのような作品ですけれども、今回は蜜蝋で作った引き出し型のものを展示しています。上部に小さな模型に使う木があり、針金で枝が作られている木が植えられ、この平面がミニチュアの風景になっていて、すごく小さい木です。その下の引き出しを引き出してみると蜜蝋があり、下から照明が当たっていますから、温まってだんだん溶けてきます。私は蜜蝋の塊をよく使うドイツの作家ヴォルフガング・ライプの作品で、素材を実際に何回か観たことがありますが、溶けてきて、しかも、下から光が当てられたときの半透明で琥珀色の美しい色彩は初めてみました。蜜蝋の甘い香りは知っていましたが、上部に小さな木が植えられた風景があり、そこの下にすごく広大な宇宙があるみたいなイメージですね。この作品にはタイトルはないんでしたっけ?
出月: タイトルは、いつもつけなくて、今回の場合「アランの毛糸帽子会議」っていう全体のタイトルがあるんで、それ以上はあまり考えていないですね。これに何かタイトルをつける時がくれば付けたいと思います。このテーブルを作った理由は、私はよく旅をするんですけれども、どんな旅でも、必ず日常に帰ってくるんですね。どれだけすごい経験をしても、またここに帰ってきていつもの生活がある。その普段の生活をしていれば、その中にまた発見をしなくちゃいけない。このテーブルはそれに関わっていくものとして作りたいと思ったんです。私は人間と周りの取り巻く環境を作品化していきたいと考えていて、特に人と自然の関係。私は田舎で育ったんで、自然との関係を作品化していきたいと思っていて、テーブルを作ってその上に森があり、森の下に湖がある。引き出しを引き出すと湖があるんです。そういうものを作っていきたいと思ったんです。作品としては、ただ木が生えていてその下に水があってでは、お話にならない。よりその本質的なものというか、自然の思想的なものに関わっていきたいと思った時に、蜜蝋という素材がちょうど良いんじゃないかと。変化もしていくし、においもするし、温度によって表情もかわってゆく。そういうものを引き出していく、引き出すという行為、このテーブルの中にかかわってくる、それがその普段の生活の中にあったらいいなと、こういう作品をつくりました。
岡部: 香りがあり、温かさがある。あと、例えばそこの奥のほうにある、うさぎの毛、これは青森でまたぎの人が狩りをしたときのうさぎの毛だそうです。暖炉にくべる薪とか色々あって、一見普通の山荘などに行ったら、よくありそうな雰囲気だけれども ここは画廊ですから、展示物から、今説明してくれたような彼自身の考え方、風景に対する視線や自分のアートについての考え方が、自然と湧き出てくる。みんなで火を観るという行為が、いつもの日常とは違う、何か別の自分自身の中にもしかしたら、ずいぶん昔から、太古からあるような記憶であるとか、日常とは違う何かを思い起こすようなきっかけを、日常的な空間ではあるんだけど、ややずれたようなすきまを作ることの中で生み出していくという非常に繊細なものだと思うんですね。出月さんは2週間くらい会期中ずっとここにいて下さって、そうした営みもアートなので、そういう意味もあってキャプションとかを一切付けていません。何かわからないことがあったら、実際に話をすることが大事なので。これまでいろんな方と話をなさっていると思うんですけれど、出月さんが伝えたいことは、べつに説明しなくても伝わっているという感じでしょうか?
出月: う~ん、それはちょっと分からないですね。伝わっているかどうかに関してでは、何らかの影響というものを与えられれば良いと思います。ただ、見に来る人は、 絵が好きな人であれば絵が見たいと思っているし、映像が好きであれば、映像が見たいと思っている。そういう人たちに届かず、すぐに帰ってしまってもいい。 例えば初日に来た人は、何にも知らずに来た人で2時間ぐらいいたんですよ。ずーっと火を見てくれていて、何かに関っていく。ぱっと帰ってしまう人の中で、何人かがすごく長い時間滞在してくれるのは、私にとってすごく嬉しいことです。その人たちは文章もゆっくり読んでくれて、質問もしてくれて、だんだん理解もしてくれる。ただ理解はすぐに生まれるものではなくて、いくつかの段階を経て伝わっていくような、そういう過程が生まれていけば良いと思う。すぐ帰ってしまった人も、この日の印象だけ残っていればいいし、ただ入ってきた人も、その中で自分なりに考えてくれればいいかなと思う。
岡部: 出月さんの作品は時間がかかるというか、逆にその時間の中で、色々感じたり考えたりすることを通して、自分自身が変わってくる。そういうプロセスの中で、出月さんの作品を理解していくような感じがします。絵だとぱっと観て、すぐわかる場合もあるけれど、そういうものとは違うし、そういうかかわりを求めているわけではないのではないかという気がします。前回の個展では、大きなプロペラが室内でゆっくり回っていて、遠くの方の山並に、おもちゃの電車が上ったり下りたりする、記憶を喚起するようなインスタレーションを見せて頂きました。そうした時空間の体験だけではなく、さまざまな文章を書かれているのを読んだりすることの中で、だんだん分かってくる部分は、勘がいい人、繊細な人は、最初にこうした空間に出会ったときから、時間をかけて理解しようとする人で、きっとそうした人もいるのでしょうね。
出月: ただ、それだけではいけないと思っていて、今回に関してはより内面的な感じ、内面に問いかけるような作品であるから、こういうスタイルなんですけれども、プロペラを作ったときとか、部屋の中に大きい輪を作りまして、その輪は外と内をつないでいるといった、見てすぐわかるインパクトを与えるようなものも作ります。その一方で、このようにすぐ観ただけでは分からない、本を読むのと一緒で、本は見ただけでは分からなから、ちょっと時間がかかる、そういう作品の違いはありますね。
岡部: 輪の作品は、私は実際には見ていないのですが、写真だけでもすごくインパクトのある作品に思えます。かなり大きい円の輪で、上に人がのったりでき、円型の鉄が部屋を貫通しているわけですね。
出月: ええ。
岡部: 今は、その作品を森の中に作るプロジェクトをやっていて、うまくいけば越後妻有で2006年に実現しようと、なさっているところですけれど。スペインのほうでも発表する可能性があるとおっしゃっていましたね。
出月: まず、その輪の作品、部屋と外をつなぐ作品ですが、私たちは部屋の中で生活をしてますよね、それで自然とか外のものに憧れていて、外(経験の範疇外)で何かものを掴みたいと思っている。でも我々は部屋の中にいる。守られている中で生活をしなくちゃいけない。外は寒いし、大変だし。ただ、部屋の中にいながら外のことを感じられるような、つまり自分の意識があって、さらに無意識のものへとつながっていくような関わりを作品で表せないかと思いまして作ったのがその作品です。自分たちの部屋が意識的な場所、そして外は無意識の場所、無意識的なところに関わっていくことで新しいものが何か出て行くと。それを象徴するようにして輪が一つの命をつないでいく。身体的に関わっていくためにそこを歩けるようにしたいと思ったんです。その作品の中でも蜜蝋を使っているんですね。それともう一つのつながりがあって、外と内をつなぐ、意識と無意識をつなぐだけでなくて、人間とそのほかの自然の関係。例えば蜜蝋が、夏になると日光で溶けるとその匂いによって蜂が集まってくる。その他の生物たちが外にいて、でも逆に人間がそこに影響を与えるわけではなくて、蜂がいるけれど自分たちは中にいる、でもその輪はつながっていて、蜂とか他の動物たちと自分たちが、何か悪い影響を与えることではなくて、直接につながっていく。そういう目的から作品が作られています。今、手がけている輪の作品は、人間と自然の関係をいかに適切な距離で表せないかと考えて、輪は木に支えられて森の上に浮いているんです。輪の上を歩くことは出来ないし、その輪の上部も見ることはできない。ただそこには、各場所ごとに蜜蝋が流れ込んでいて、色んな生命が集まってくる。さらに時間がたつとそこにツタなどの草木が絡んでくる感じ、自然が絡んでくる。または、夏と冬、その季節によってさまざまな表情が見えてくる。夏は樹木から葉っぱが出てきて、自然の中に輪は覆い隠され、消えてしまう。しかし冬になると、全部葉が落ちて、輪がくっきりと現れる。夏の間であれば比較的密接に作品と関わり、冬はその輪がくっきりと見えることによって、自然との距離が、ただ優しいだけではなくて荒々しく、時には人の命を奪うし、救ってもくれるし、人は自然を自分たちの基準で把握する存在と思っているものですから、一方的な距離感でなく、作品で表現したい、そのためにその輪の作品をつくろうと思ったんです。
岡部: 出月さんの場合はいろいろな国に旅行して、かなり最果ての地みたいな所までも、常に旅をなさっているので、火がなかったら、死んでしまうかも知れないというくらいの経験もなさっているのでしょうね。そこまではいっていないですか?
出月: 死んでしまうような経験ですか(笑)。まぁ、容易に死ねるような場所には行ってますけれども。皆さんの中にもし自殺したいという人がいれば、ぱっといくらでも自殺できる場所は知っていますが。でもねぇ・・・死ねないと思いますよ。やっぱ止めようかなって。
岡部: あまりにも風景がすばらしくて?
出月: そう思いますよ。こういうところで死にたくないなって。
岡部: すごく孤独だからですか?
出月: っていうか、そういう経験までいかなくても、その前にまず腹が減るんですね。で、眠くなってくるとか。あぁ、こういう所で寝ちゃいけないって思うんですね。
岡部: 生存本能が出てくる?
出月: そうそう。きゃー死にたいっていうときは、だいたいみんな安易な手段を選ぶんですけど、私の行ってるところはそういったものをする余裕がないんです。
岡部: 非常に厳しいからですね。
出月: 車で行っても一酸化炭素が引けるような余裕がないような所で、そこに行くと車ごと沈んじゃうんで、いかんいかんって言って車から出てしまう。吹雪いていたり。でもその場所では、車で川を渡ろうとすると川の中にはまって死んじゃうっていうんですね。全然死なないじゃないですかって言って、聞いたら、浅い川だった。でもその浅い川にはまって、車を出そうとして頑張っているうちに、川が氷点下以下ですごく冷たい川なので、足がすくんでくるんです。それで、あっという瞬間に足をとられて流されて、そのまま心臓停止で死んでしまう。だから、とんでもなく簡単ですよ。でもそこまで行くと、やはりどうしても生きますよ。
岡部: サバイバルの気持ちがでてくるということですね。危険なことを実際にいろいろやっているんでしょう。
出月: いや~気がついたら危険になっていたっていう。
岡部: 食料が不足したり、自転車の旅行で食糧難になったって言ってましたね。
出月: 私の場合はほんとに情けない感じなんですけども、そういう経験をしてすぐ何かに生かされるということではなくて、大事なことは普段の生活とかでも、何かを発見することではないかと思うんですね。それが極限の中に行くと、もっと明確になってくるというか。私が旅をしているのは、なんで自転車に乗ったり歩いたりしてるんだって聞かれたら、ものを作るからかと思うんですね。例えば普通の大学で勉強している人であれば、そういうことをしなくても良いと私は思うんですよ。ただ、ものを作っているから自分の感覚とかに対して、勉強をして、鍛えなくちゃいけないんですね。感覚を鍛えるためには旅が一番良い手段ではないか。自分の生の経験が、直接的に生かされている場所、そこで体験として学べるような場所、だからこそ私は旅をしてその経験から何かを得て、それを活かしていきたいと思ってるんです。でも今振り返ると、全然極限じゃなかった。その場にいて極限だというふうに感じていたものを、極限状態だと勘違いする。
岡部: 初期の頃は、友だちとグループみたいな形で、5、6人とか7、8人とかで、東京の中を歩いたりもなさっていましたね。最近はそういうのはやらないんですか?今は単独でどこかの端まで行くことが多いのかしら?
出月: そうですね。最初の頃はグループで、朝の7時から11時までかかって東京の山手線を、がーっと歩いて一周するんですけれども、それは自分たちの住んでいる場所、東京という場所を自分たちの感覚で把握したいというのがあって、一人じゃ嫌なんで、みんなで行きましょうと、その経験を活かして作られているんです。その後は東京湾を半周。羽田から千葉をずっと歩くのをやりましたね。 あとは、玉川上水を端から端まで歩いて行くとか。
岡部: ではそろそろ会場の方から出月さんにこういう話を聞いてみたいとか、この点を聞いてみたいということがありましたら、ご質問ください。会場には、わざわざアランのような帽子をかぶって来てくださっている方もいらっしゃいますね。
観客1: 前回、ヒラワタに行ったときには、毛糸の帽子がたくさん用意してあって、好きなのをかぶって暖炉の周りを囲んで下さいという「アランの毛糸帽子会議」があったんですが、今回は自分で持って来ました(笑)。
出月: ありがとうございます。
観客2: 出月さんにとって、今まで印象に残った火はないでしょうか?火に対して、他の人が思っているのと違う風に思っていたり、火にまつわるエピソードが何かあれば。自分も山に行って火を囲んだり、今年の夏も一緒に囲ませて頂いたんだけど。すごく火に思い入れがあり、火の話をしたことがあるので、ちょっと聞かせていただければ。
出月: わかりました。火にまつわる話は、別に具体的に何か覚えている話はないけれども、昔、ある先生のところで絵を描いていて、薪のストーブがあったんですね。工場にあるような小さいものです。その火の場に夜な夜ないろんな人が集まって、火を囲みながら話をしていく、そういう経験が生かされているかな。あとは川に行って何もないところで火を焚いたり、ぼーっとする時間を何度か過ごしたりはしていました。具体的に残るというものではなくて、必要な時にぱっと思い出したりしますね。それがいいんじゃないかな。具体的にというのではなくて、火を通して自分が何か、その向こうに必要なものがあるときに問い直したいときに、火が関わってくる。だからこういう展覧会を作ったと、私は考えています。
観客2: ありがとうございました。
岡部: 具体的に暖をとるための火というよりは、出月さんにとっては火を焚くという行為自体が一つのアートではないでしょうか。それに関わり、火を点け、火を焚き、関わりあうことの中で自分自身の時間というのかな、そういう空間、別に暖まるというわけではなくてそれ自体が一つの行為というか、重要なのですね。で、その向こうにあるものを考えたりすることなのかなと思います。現場の問題ではなくて、別のことを考える一つのシチュエーションとして、火を焚くという行為があるのかな、という気がしますけども。
出月: そうですね。
岡部: 最近マシマロを焼いて食べることを覚えました。後でみなさんもマシマロを焼いて下さい。すごく美味しいです。 他に何かご質問はないですか?はい、どうぞ。
観客3: 最初にお話して頂いたことですが、火を見せて、お客は中に入らなくてもいいという話ですけど、輪の話も非常に伝えたいことがはっきりと理解できるような気がしたんですね。今回、この火は、蛍の話をまわりに飾ってありますけども、それはさっきの輪のように出月さんが伝えたいものが何かあって、こういう組み合わせなんでしょうか?それとも、観た人が観たなりで感じればいいと思ってるんでしょうか?そういう見方をするのが良いのか悪いのか分からないんですが、聞かせてほしいなと思います。
出月: 輪の作品と今回の作品の決定的な違いは、私の考えが明確化されているわけではなくて、ある始まりというものを作りたいというのがあって、みなさんの持つ風景が、それを想起するように、何か物語というか、ものを作る始まりを作りたいと、考えているんですね。輪であれば、それはもう完成している。自分がこうしたいのを具体化していくのだけれど、ここの作品は、ここからまた始まるというここから自分で考えていく作品で、先ほどおっしゃった後者の意見です。それがまさしくこの展覧会にはあっています。
観客4: お話の中で、鑑賞者の中に風景を作りたいという大変興味深いご提案だと思うんですけれども、特に先ほど、自然の風景にもふれられていたかと思います。ご自身は、なかなか人が見られないような自然をご覧になっているようですが、自然をどういう風に捉えているんでしょうか?
出月: 良い質問ですね。確かに難しい、自分にとっての自然はもちろんすごく大事なものであるけども、大変厳しいものでもあるし、ただ常にそこにあるけども何かうまく感じられないようなもの、当然そこに自分の中の一部として、組み込まれているものだと私は思います。ただそれ自体が大きすぎて、うまく見えてこないところもありますね。それをうまく表したいがために作品をつくりたいというのはあるし、他の人とちょっと違うところがあるとすれば、その関わり方が、みんなが思うようなことと少し違うところがあるから、作品をつくってみたいと思っているんです。あと火に関わることであれば、火は危ないとかいうことではなくて、いやもっと違う方に捉えてほしいとか、あとはアウトドアに行く自然に関わっていきたいと思っています。でも、面白いというか、やっぱり文明的なものが関わってくるんですね。私はアイスランドに行った経験で、すごく厳しい地点にも行って、何が一番美しかったかと聞かれたならば、発電所が美しかった。すごくひどい話じゃないですか、発電所が美しいなんてと人に言われたりもしたんですけども。そこはツンドラ地帯というか美しい自然があるんだけども、そこにも人が関わっていて、何にもない荒涼たるところの湖の、さらに果ての方に、発電所のプラントがチカッチカッって光を発しているんです。そのときに、あぁすごい、人間はすごい力を持っていると。あるいは、別の場所では送電線が引かれていて、そのパワープラントが動いている。それがすごく美しく見えたというか、人間もまた、その中ではすごく美しい、輝きを放っている存在だと私は思っているし、だからこそ、私はその関係に対しての多様な可能性がありかなと思っていて。
岡部: 関係ということに関してですが、彼はヨーロッパの見知らぬ場所に行って、そこの町でビラ配りをしました。そこの人たちにあなたの一番好きな場所に連れてってくださいと書いたビラを配って、だれかが現れるまでずっと待っている。誰もなかなか連れて行ってくれない。そこの町の人にとって彼はまったく見知らぬ外人なわけですけれども、その外人と本当にひと時のコミュニケーションをもつことで、自分の日常がふと30分でも変わる可能性があるのに、なかなかみんなその一歩を踏み出せない。そういうことに対しての勇気もあまりない。でも踏み出した人にとっては、いつもの自分が歩んでいる生活とは違う何かに一緒に行ける。そういう新たな関係性を生み出すプロジェクトもなさっています。そのプロジェクト、私とても好きですが、出月さんにとっての風景と言っても、それはある意味で、先ほどは人の心の中に風景を作るって言ったけれど、まずやっぱり人とのかかわりがはじまりなのではないかしら。
出月: あの作品には題名がついてまして、「stranger than paradise」というジム・ジャームッシューの映画のタイトルからきているんです。あの映画は男女のすれ違いの面白い話ですけれども、内容とはちょっと違っていて、私は広場に行って人を待つんです。ドイツの古い田舎町で、ビラをまいて、その街を案内してくださいと。外国人なんかいないようなところへ行って、そこで、金曜日に待っているから来てください、でこれで何を作ろうかってしたときに、私は文化の始まりを作りたかったんですね。文化の始まりって何だろうと考えたときに、文化って、異邦人が行って、新しい力を生み出すのだと思っているんです。私がそこではまさしく異邦人、ストレンジャーで、天国からきたストレンジャー、天使みたいなものですが、実際は天使ではないですけども、そういう特別な使者みたいな人が来て、そこでその人が関わることによって、住民たちが新しい刺激を受けて、文化が生まれる。でもその人に声をかけなければ、その人がどんなに力を持っていても、何の影響も与えることが出来ない。それが私が作品にしたいと思った理由かな。それと何か生まれそうな気配は感じられる。でも結局は誰も親しくはなれない。でもそこに誰かが来て話をするわけです。やったときには、「君は待っているんだ、じゃあ、友達を連れてきてやるから」と言って。でもその後、彼はどこかに行ってしまって、私はずっと待っているというので終わるんです。それを見た人は、そこにある可能性を感じて欲しいと思っています。同時にその街と人、街との関わりを見てほしいと思う作品を作っています。街と人の関わりといえば、 「あなたのお気に入りの場所」という作品を作っています。これは世界初の地域住民のための観光案内ビデオです。これもビラを配り、ビラというか、その時は通行人、そこを歩いた人たちに聞いていくんです。「すいません、あのあなたのお気に入りの場所を教えて欲しいんですけど。この街で、気にいってる場所があれば教えて欲しい」と、半分以上の人は「そんなのないよ」「ありません」というんです。残り半分が答えてくれて、選んだ理由を聞かないで、この公園が面白いよとかこの川がいい、この教会がいいと言われて、じゃあ行ってみますと言って、そこへ出かけて、何が面白いんだろう、あ、コレも面白いんだろうなというのを自分でビデオに撮る。で、展覧会の時に街中の人目に付く所、人が待ち合わせる待合所、駅、図書館の入り口、そういうところに置いて、ずっとループで流すという作品です。この作品でのお気に入りの場所も、とてもささいな場所になります。この展覧会の風景も、それに関わっていて、そういう色々な経験をしても最後にくるのは、日常の中の風景ではないか。その最後に来る風景を、展覧会プロジェクトではみせたかった。面白くないような感じのものでも気になってしまうような、その地域の人にとっての本当の観光案内ではないかと思ったんです。結構良い評価を得ました。
岡部: 面白そうですね。観てみたいです。そろそろ最後になるのですが、どなたかもうお一人どうぞ。
観客5: リーフレットにマグロの一本釣りの取材がありますね。出月さんは行きたいところは、個人的に行こうと思えば行けますが、鮪の一本釣りは漁船ですから漁師さんに了解を得なければなりませんよね。その時、一応自分がアートとして表現したいから取材したいからと言っても、なかなか了解を得られないと思うんですけれども、どういう説明をして取材をしてきたんですか?
出月: まず直接行っても相手にしてくれないんで、友達を連れて行って。そこに行く5年くらい前から私は青森の方に行っており、現地で作家の手伝いなんかをしていて、その時に知り合った人がいて、その人を通してまず漁師さんにお願いして、何人かお願いした中で乗せてもらうんですけども、そのときアートというより、先にまず乗りたいと、でもってビデオを撮りたいと、どうしても乗りたいということを、そのアートがどうだっていうことを説明しなくて、撮りたい、撮りたい、と。「船酔いしないのかお前?」と言われれば、「しないっ!」と(笑)。「します」とか言ったら乗れないですから。「はい、大丈夫です!」と言う。「泳げるか?」「泳げます!」と。でも泳げる、泳げないの問題じゃないんですよ。津軽海峡ですから。最初、余裕じゃないかといくんだけれど、なんか海なのに先のほうが川みたいになってるんですよ。ざぁーっと流れていて、そこに行くと船ががっと流され、揺れに揺れる。もうマストが折れんばかりの揺れで、体をですね、こう自分で、船の端に結びつけて、脇の下で舳先を挟んで足を突っ張らせて体を固定したんです。でもほんと、船酔いはしなくて良かったです。
岡部: ターナーみたいですね。ターナーも嵐のときに自分の体をマストに縛って絵を描いていたらしいです。描いたというか海の嵐の情景を観察していたらしいです。
出月: 撮っているときだけは、いいんですよ。すごいのはですね、バッテリーが切れちゃってバッテリー変えようとして、その船の操縦室に入った瞬間に、うおぉって感じで、船酔いが突然襲ってきて。あれがホント面白かったです。
岡部: 緊張しているときは大丈夫だってことですね。
出月: 緊張感があったんですよ。自分がやりたいとき、何か頼む時にですね、何かの情熱をかけて、実際こう酔わないようなことをするとか、ひとつの山を歩く時も、山に行くためには、体力をつけたりとかですね、迷惑にならないように心がけるとか、そういうのにはすごく気をつけます。ただマグロの漁をする人と関わったときに、漁労長の人だったんですけど、有名じゃないですか大間のマグロは。テレビの取材とかも結構あるんですね。その人たちが、これを見てマグロがすぐに捕れると感じたら、ちょっと困るよなぁという話をするんです。それを聞いて、あぁそうですね、私にとってもこれに関わるのは、テレビとかじゃなく、自分の経験から関わって作品にしたくて、自分の視点から関わっていくことが大事なんだと現場にいて思いました。情熱を持っていけば、必ず分かってくれると私は思います。どうでしょうか?答えになったでしょうか?(補足;捕れないマグロを追うことは、経済行為を超えて、芸術的な行為になっていると私は思います。結果ではなくて行為や経緯にかかわることで作品にしようと考えました。)
岡部: 皆さん、興味深いご質問をありがとうございました。そろそろお芋も焼けてることですし、これから一時間パーティーをしますので、ぜひマシマロもお試しください。
(テープ起こし:戸田歩)