加藤義夫: 雨の中どうもありがとうございます。今回は今年度αMプロジェクト全8本の第二段、石川さんの個展です。今年度、写真家は石川さんだけなんですが、8本の中にぜひ写真を入れておきたいなと。リーフレットには写真の歴史をずっと書いていって、記録としての写真から、「作る写真」・「物語る写真」という形でテキストを書いたのですが、それは実は絵画に近いんじゃないかと思うんです。石川さん自身が油科卒ということで、絵画を目指していた人が写真にどう変わっていくかというところに興味があった。まず、石川さんにお聞きしたいのですが、リーフレットを読まれてどうですか?
石川卓磨: 丁寧に読み取っていただいて嬉しいなと思ったのが第一印象です。カラヴァッジョやダヴィッドの名前が出てくるのは、制作時に想定している時がありますので嬉しかったです。僕が絵画から写真に移った理由の一つは、絵画と映画の狭間にある写真というものを面白く感じたからです。また、まだ写真や映画の無かった時代に、絵画が、いかに映画に匹敵する一枚を出していたのか、それは僕が写真を考えていく上で非常に重要なので、的確だなぁと感じました。
加藤: 170年近く前に写真が発明されました。これは絵画にとって衝撃的な出来事であり、絵画を職業としてきた人たちは、写真によって失業するという恐れを抱いた時期があったと思います。しかし、最近、写真はより美術に近くなってきて、美術家が写真をメディアとして使うということが多くなってきたわけですね。「撮る写真」から「作る写真」へ、みたいなことが確立されてきた。その文脈の中で、「作る写真」を実践しているのが石川さんかなと思う。それと同時に、映画と写真の狭間ということでは、「物語る写真」と書いたんですが、今回の作品の物語を石川さんは決められているんでしょうか?
石川: 今回の作品では、複数の写真を使って物語っていくこととはどういうことかをより考えました。写真は映画のような形での時間、空間の連続性や持続がありません。複数の写真を並べたからといって、一枚一枚の写真は分割され、映画のような全体性は作り出されない。にもかかわらず複数の写真が関連付けられ束ねるにはどうすればいいのか。そういったことから、すべての写真を統一された形式のもとシリーズ化するのではなく、個々が自律した写真と見せながらも、全体として束ねることもできるだろうかと考えました。
加藤: それが展示に現れていると。前回appelで個展を拝見したときは、連続したような並べ方をしていましたよね。
石川: 前回は人物、小道具、風景によって複数の写真が明らかに連続しているかのように見せています。けれどもそこでは、複数の写真が連続した状況を指し示している保証はないことがコンセプトでした。繋がっていないものを無理やり繋げて見せることによって、見ることと信じることの関係性を見せたかった。今回は複数の写真が前回とは違うやり方で、どうやって繋がっている・繋がっていないを指し示すかというのがありました。そのアイデアとして、水面に石を投げるとできる波紋のイメージがありました。石と石は離れていても波紋で繋がっていくように、写真を見せることができるんじゃないかと。一枚の写真は瞬間でしかないのだけど、前後の時間や周囲の空間を示唆させる要因を作っていく。それによって観る者が繋がってない写真を結び付けようとする。そういう繋がりを作っていこうとしました。
加藤: 連続性と分断、そういう考え方も絵画に似ている気がするんです。絵画は窓の奥行きですが手前全部に空間がありますし、絵画や写真が置かれた環境においても、横との並びの波紋で全体がインスタレーションになるっていうこともあるから、平面ってことでは同じかなと。今聞きたいのはこの作品に関してなんですよ。この作品、異質でショッキングな感じがするんですけどもこれは、どういうイメージで撮ろうと思ったり、用意しようと思ったんですか?
石川: 「同胞に告ぐ」というテキストも展示していますが、共同体を意識させるようなものを作ろうと、と同時に、共同体の外も作り出したいとも思いました。内臓を手に持っているわけですから強いんですが、この人たちの関係の中で暴力性がどう介在しているのか、そういうものをシンボリックにあらわしたいと思ったんです。この写真によって、何気ない日常的な風景が変容し、他の写真で行われていることの見え方が大きく変わるだろう、と。
加藤:すごい影響力がありますよね。肉は肉屋に行けばありますけども、ああやって持つと生々しい。ひとつ置くことによって、物語が変わってくる、これがあると人それぞれのイメージが変わってくる、非常に効果的な作品だと思います。たくさんのカットを撮って、セレクトされて出しているんですか?
石川: そうですね、かなりの量を撮っています。ただ今回は、何を基準にして写真の枚数を決めればいいのか、っていうのが非常に難しかったです。先ほどの波紋の例で考えると、写真をあんまり多く置いてしまうと波紋と波紋がぶつかって輪を壊してしまって、伸びきらない。しかし同時に、自分が描きたい問題を描けているようにしなきゃならない。と、悩みながらこの枚数で決定しました。
加藤: これって、絵コンテとかを描かれているんですか?
石川: 撮影前にロケハンはします。しかし絵コンテは描かないようにしています。描くと、構図が固まっちゃうんで。
加藤: アンリ・カルティエ=ブレッソンという人がいますけど、彼の撮っている写真って、絵画的な構図で、普通の人は撮れない写真だと思う。ああゆう人の写真ってどういう興味があります?
石川: 作ってるなぁって感じます。自然なようで、人の配置とか完全に作ってますよね。
加藤: そうなると石川さんのはもっと作ってることになる。作ってないように見せるのか、別にそれは気にならないの?
石川: ブレッソンのような決定的瞬間ではなくて、意味の広がりや結び付きを従来の写真では作れないような形で作りたいと思っています。あと、ブレッソンのようなドキュメンタリーが保障されるようなリアリティーのある表情みたいなものを撮るっていうのに抵抗があるというのもありますね。
加藤: 写真って、ある大きさを必要とするかと思うんですがどうですか?
石川: 写真が美術になるひとつのやり方として大きさを必要とするところはあると思います。写真とは基本的にモノとしてよりもイメージとして成立しているものですが、美術では作品がモノとして成立していることのほうが圧倒的に優位です。そのため額装も含めてサイズを大きくするというのはとても有効な手段です。写真を大きくする作家はドイツを中心に多いですよね。でも写真がモノ化する必要性が必ずしもあるのでしょうか。もともと物質性が強調されない存在として美術における写真と文字の扱われ方は似ているところがあるように思います。文字もまた美術において物質性を強調しなければ作品化しにくい存在です。ですが、近年のジョセフ・コスースの美術館の壁中にテキストが書かれる作品は、空間等に絡めていけば、必ずしもモノ化しなくても作品になりえると思いました。今回は展示会場で壁を作り順路を作ったりすることで、写真を大きくモノ化すること以外にも、美術と写真の成り立ちって可能なんじゃないかと考えています。ドイツ写真はものすごくお金をかけてあんなふうにやっているけど、ひとつのイデオロギーだから均質に見えますよね。大型写真で、ピントばっちりっていうやつと違う可能性ってあるんじゃないかと思っています。
加藤: ドイツ写真の若い人は、なん通りも撮って、デジタルで重ね合わせて画像処理をしてプリントアウトする人もいます。こういう方式は、テクニックの問題だったり考え方の問題だったりすると思うんですが、そういうのはどうですか?これは、フィルムで撮っておられるんですか?
石川: そうですね。写真がデジタルやCGじゃなくても、もうちょっと違うやり方で写真ってやっていけるんじゃないかと思っています。ある種のデジタルやCGであることを基盤にする写真に違和感を持つのは、『全部違和感が似ている』ことです。その違和感とは、CGなどの加工により記録性を否定する、と同時に細部などの描写による圧倒的なリアリティーを作り出すことです。しかしそれは逆に写真の記録性にたよっていると感じたんですね。僕は今ここで立ち上がっている問題はなんなのか、っていう現在性の問題が大切です。展示された複数の写真が、観客の頭の中でどう時間を結ばれるっていうことの方が、記録性よりもより重要だと考えています。
もう一つあるのは、例えば映画の「マトリックス」では、高速道路をポンポン跳んでしまったり、同じ人物がたくさん出てきたりする。CGはそういうのも簡単に描ける。でも、CGによって可能になったということがわかってしまう。アクションっていうのは到底不可能と思えることが可能になることを描かなければならない。けれど「マトリックス」はアクションで現実的な抵抗をなくしてしまうことで退屈に感じさせています。絵でもそうだけど、重力を無視してすれば、浮いているということはわかっても浮遊感はうまれない。もちろん、CGによって刺激的なものもたくさんでてきています。重要なのは操作できるところと、操作できないところ、その二つの拮抗なのだと思います。CGをつかっても面白くできる人ってそれがわかっている作家だと思います。こういったことを写真の分野においても感じるのです。
加藤: 先端技術に使われている人と使いこなせる人で創造のレベルが違ってくることはあると思う。メディアアートの作品を見ていて面白い作品が決して多くないのは、こういうことができるああいうことができるっていう技術に偏重していて、そういう作品は見る側にとってみれば面白くないからだと思うんです。面白さって内容なんですよ、単純なものであっても。科学技術は芸術を変革していくので、写真が出てきたことで絵画が大きくかわったし、そういう意味では、デジタルができることによって、違う変革も出てくると思うんですけどね。
石川: もちろん僕もそう思います。でも、日常生活などでは変わらないことも多い。変わっていないことも同じように大切だと感じます。そういうものも利用して作り出されるフィクションというのを大切にしています。スペクタクルではなく観客の実感や想像力を引き起こすことが目的なのです。誰かが遠くにいて会いたいけれど今すぐそこに行くことはできないとか、肉を切るとき肉を持つときの感覚・感触など、誰もが経験している感覚が結構重要だと感じています。デジタルって、身体感覚をはるかに超えた能力があり、人間の知覚をはるかに越えてテクノロジーって発展している。けれど同時に人間がそれについていけないことがあります。人間の知覚とデジタルという異質なものが簡単に共存できると考えることはあまりにも楽観的でしょう。例えば眼鏡と同じです。眼鏡は必ずしもよく見えればよく見えるほどよいわけではありません。見え過ぎるから疲れてしまう、見え過ぎるから見えなくなってしまうことがあるのです。僕はそのような身体感覚的なバランスが作品を作る上で非常に興味を持っている部分なのです。
加藤: 情報が多過ぎると疲れるっていうのはあるんでしょうね。さて、石川さんの作品を自分なりに解説していただけませんか?
石川: 今回は南武線南多摩駅の周辺をロケーションにして作品を作っています。これから町が出来上がる、開発と未開発な地域がはっきりとみてとれる未完成な郊外を選びました。一枚の写真に何人入れるかとか、人物の同一性や時間の経過を表すための服をどう見せるかなどを決めています。そのような細部の決定や人物の身振りによってここでは何が起こっているのか、全体の中でこの写真は何を意味するのかっていうことを作っています。また僕の作品ではタイトルも写真を見るうえで大きな意味を与えています。「消えた人々」というタイトルは、自分がみずから消えたのか、それとも消されてしまったのか、消えた人々とは誰なのか、なぜなのか。「消えた」は過去形であり、これらの写真ではそれを指し示す直接的な表象はどこにもないのですが、その予兆や予感というものをタイトルと写真の関係で作ろうとしました。
ひとつ、これらの写真では写っている人々の疎外が強調しています。そこには暴力も介在している。僕はそこに作家が生きて行くことのリアリティをイメージしてます。美術は表現媒体がふえ、価値観が多種多様になったイメージがあるわけですが、同時に殺されている美術表現もいっぱいあると思います。表現が殺されるとはまさに暴力です。そういった中でアーティストは外部的圧力とそれによる疎外を常に感じています。しかしアーティストは単に被害者だと言いたいわけではなく、それに対して新しいアクションを起こしていくわけです。しかしそれもまたひとつの暴力のような気がします。そういった連鎖する異質な暴力の組み合わさりというのが社会を構成していく。そこに取り残されるさまざまな問題を抱えること。そういったことっていろんなことに置き換え考えることができると思うんです。それが今回の作品を作っていくうえでの大きなきっかけとなりました。
加藤: さて、そろそろ、時間なんですが。石川さんの作品の解説や思い入れなども聞けて、入ってこられて作品を見られたのとは変わったイメージを持たれてご覧になられると思います。では、ありがとうございました。
石川: ありがとうございました。