TEXT - ・ギャラリートーク:森燐×加藤義夫

加藤義夫: 略歴の中に「人間の死体を発見する」というのを入れる意識というのは森さんの中でどういうことなんですか?そこから世界が変わったのか、意識しているものが変わっていっているのか、生と死というものが始まっているのか?

森燐: 1981年というのは、他にも色々あって、(その中で)一番の象徴的な出来事なんですよ。なので、こういう略歴を載せる時には、これはちょっと外せない出来事として入れています。

加藤: いつもこれは入れて?

森: いつも入れてます。

加藤: そうなんですか。でもかなり珍しいというか見たことが…。

森: 例えば某美術館での展示の時に、「こりゃなんだ?」と言われて、「これはちょっと外していいか」という話が学芸員の方からあったりして、僕もいろいろ説明するんですけど、どうも理解してもらえなくて、そういうときは、「では、何年に生まれるとか、いつ卒業しましたというのも一緒に外してください。」と重要度を示して必ず入れるようにしています。

加藤: なるほど。僕は見たときに、これはご本人としては非常に重要なウェイトがあることだと。それで外せないから書いているのだと思ったので、別に外そうとは思わないし、これは人の死に対して面白いといったら変ですけれどもそういうのと出会うことで、違う世界が広がっていったのではないかと森さんの中では思って入れてらっしゃるのかと…まずはそこを聞いてみたかった。聞いて、理解をしましたけれども。

森: あの年は、「二度目の生まれました」みたいな感じの年なんですよ、僕にとっては。なので、最初に1967年に誕生したという以上に、自覚して生まれたという感じがすごくする年なので大事ですね。

加藤: 文章にも書いたんですけれども多様というか多彩に表現が変わってきていると思うんですよ。表現として、素材として。これも、この過去の作品を見てイメージをした森さんの作品像と今回出来たものが全く以外だったので…。写真を使われると?

森: えぇ。

加藤: ここで前紹介させてもらったとき絵を見せてもらったんですよ。絵を描くかと思っていたので、それを割とコンセプチュアリにというか、わかりやすい表現にして写真にして提示されたんですが、ちょっと驚いたんですよ。自分が持っている、森さんの日本画というところを立脚点にして出されてる表現と生と死という部分のことをふまえたイメージと少し違うなということを感じて。この辺で今回こういう展示でタイトルは「百物語絵巻」、これにしようといつ頃決め、どういう風なきっかけでこう握手をするという図をしたのか、これらは人種の人たちの手だと思うんですけれども、このあたりをちょっと説明していただけたらと思うんですけれども。どういうきっかけでこういう作品を作ろうかなと発表しようと?これは前からやっていたわけでなく今回からですか?

森: そうですね、今回初めてですね。人との握手で、握手を改めて見直したというか…。

加藤: 握手を?

森: なんか形になりそうだなと思って、そのときから撮り始めたんですけど去年のちょうど一年以上前、いや、だいたい一年ぐらい前かな?

加藤: それはパリに行かれたからそのことが…?

森: 実はまず日本で撮ってるんです。

加藤: そうなんですか。

森: ただそれは撮っただけで何か形になるとは思ってなかったんですけれども、その後も撮り続けていて、特にそのときは自分でもこういう形になるとは全然思ってなくて、ただ今の自分にとってはすごく大事なことのような気がして…。

加藤: 撮り続けて貯めておいたと。

森: まずは撮り続けるということをずっとしていて、同時期にコレとは別に絵も描いたりしてるんですけど…。結果的に今回はこれらの写真で、ということです。

加藤: それで、それを作品化して発表するということはある?人に見せないとダメですよね?

森: えぇ。

加藤: そうすると見せるような仕組というか使い方を考えなくちゃいけない。それもギャラリーでというと、明らかに自分が日常日記のように撮っていったものを人に見せるというか、表現して伝えるという行為だと思うんです。そのときにはどんどん作品として考えて、ひとつのプロジェクトとして出来上がってくると思うんですけれども、これにひとつの考え方の、哲学を与えないと成立しないと思います。その辺としてはどう考えたんですか?最初、アーティストは直感でいいと思うんですけど、何か気になるものを集めてるとか、気になるところを捉えてるとか、写真で撮ってるとか。そのうち、それらが集積してきて発行するということで良かったと思いますが、そのときに出てきた時点ではあまりよく分からなかったのが多い。自分が何をしたか、したかったのかがわかるのが少し時間がかかると思うんですね。きっとこれを発表して5年か10年経つともっと違う意味で意味を持つとか、なぜこの時こういうことをしたかというのが言及、言説かされて言葉になっても理解できるようになると思うんですけど、現在できっと吐き出した感じかもしれませんね。まだ何がどう固まって、森さんの謹選する何かがあって握手が気になりだしたっていうことはご本人も無自覚があるかもしれない。気になることは気になるという、それを貯めておいて出すという事で何をどうかというのが。僕は文字としては言及して書きましたけれども隣人愛とか人類愛とかいう意味でそれを見たとき、でも本質的にその事がわかってるのかちょっと分からないので、もうちょっと時間をみないと、このプロジェクトをやり続けないとわからないと思います。ご本人としては人前に出す、プレゼンテーションするという段階で、何か決めないと難しかったと思うんですけど、その辺のことでこの作品のことはどのように発表しようと思いました?「これは何なんですか?」って言われたら、これはこういうことを生むんだとか伝えたかったとかありますか?

森: うーん、というか加藤さんどう思われました?見て。

加藤: これね、最初資料見たときに、色んな人種の手の方が現れていたので、パリという所に行って、異文化との出会いと言うか衝突だったんですかね。コミュニケーションというののひとつに握手があります。それは結局、世界的な作法と言うか、握手をすることによって、敵対していません、コミュニケーションしましょうという意思表示になる。直接肌に触れ合う行為からスタートするというのは武器を持っていないという表現にもなり、そういったことから握手が始まったらしい。日本人だったら、名刺や礼をするものですがね。国際的な街、パリに森さんが移り住んだことで、たくさんの人種の人たちと仕事をすることになります。その中では、物を買ったり、お願いするなどコミュニケーションはどうしても必要で、言葉が出来てもそれ以上に握手の力というのを森さんがこう受け取った、受け止めたのかなと。

森: そうそうそれは一番重要で…。

加藤: と思ったんですよ。

森: 握手の力、確かにそれが重要なんです。でも今回こうして並べられているモノはひとつも握手してないんですよ。この状態では握手するかどうかもわからないわけで握手したところを撮りたいとは僕は思わなかったですから。だから握手しようとする手と手が対峙して、それぞれの距離感を持って面々と連なっていく様子を見せたかったというのがある。形にするときに真っ先に思いついたのが日本の絵巻というスタイルなんですよ。すごくそれが自然に出てきて、まぁ後は形にしていくだけだったので。

加藤: これは実際丸めて絵巻にしようとかはするんですか?

森: 丸めて絵巻にはしたいですね。ただこれね、どの組み合わせでもいいんですよ、なので一回組み合わせちゃうと、それで完結しちゃうなぁ…。

加藤: なるほどね、固定されちゃうということですね。

森: そうそう、だから絵巻として出す度に絵(手)の組み合わせが変わり続ける絵巻。そのぐらいの感覚が僕の中にあるんですけれどね。
手の写真をもとに絵巻を作る際に考えてやっぱり外せなかったのはこの紙質なんですよ、僕の中で。画像処理はしていますけど、これらを写真用の紙にプリントアウトすると本当にクリアにパッチリ、綺麗になるんですけれども、そうするとやっぱり出てこない感覚とものがあるんです。さっき言った、距離感とか空間とか後は呼吸感、呼吸する感覚というのを出す為に和紙を色々と探して、一応全部特注したんです、この紙は。出来るだけ薄くて頑丈で表面も非常に滑らかな感じのを探して、プリントアウトした時に一番綺麗に見える…。

加藤: かなりこだわったと。マットな感覚であがってくる艶消しっぽいですよね?

森: なんていうのかな。今までいろんな素材を使ってきた中で、和紙とのはすごい優れているなと。世界中にもちろん和紙というか紙?植物性の繊維で漉くというのはあるんです。けれども、やっぱり日本で作られた紙というのは本当によく出来ているなと思いますね。この和紙を作る人がいないとこの作品はやっぱり出来てないし、そこにもひとつの命が…この紙をすいた人たちを僕は知らないですけれども会ったこともないし。

加藤: それで、これ絵巻にしようと思うとどういった行程を迎えるんでしょうね?

森: というのは?

加藤: これだと縦になるでしょ?横にずーっと流れるような方向で、絵巻はよく時間が流れてるところがあるじゃないですか?

森: 時系列ではないですけど。

加藤: という部分と、これは上下になっているという風な感じ?

森: 時系列ではないんですけれどさっき言った距離感の話ですけど、やっぱりこれとこれなんか、(壁面の作品を指差して)この手とこの手は一月くらいの時間の距離があって、撮った時の、時間的なことを言えばですよ。だけど今は(手と手の間の空間を指差して)このぐらいの距離のところにあるように見える。一応このぐらいの距離感でこれから手を握り合うかのように見えるんですけれども、でも実際はどうなんでしょうかね?というのがあります。だからまさに今、握手しようとするのかな?という手同士が向き合ってるという状態こそが重要なんです。この向き合ってる手と手同士の空間的距離や時間の距離、様々な距離感ですね、全て僕が握手した人の手ですけれども、この手の持ち主とこの手の持ち主は、恐らく一度も出会ったことのない人たちで、将来一度も握手しないかもしれない。ひょっとしたら出会って握手しちゃうかもしれないし、殺し合うかもしれないし、ということ。そんな気持ちはモノを作る時点で出てますけど、その距離感を「間」と読んでます、僕は。