TEXT - ギャラリー・トーク 木島孝文 × 小川希 × 住友文彦

2008年6月20日(金)


■木島さんの作品について

住友: まず、僕が木島さんの作品の気になるところというのを初めにお話しておきたいと思います。作品に直に座っている方は分かるかと思うのですが、ざらざらしたりつるっとしていたりするテクスチャー、記号性のあるモチーフ、文字など、全く異なるテクスチャーやレイヤーが、とても均質にある部分だけが突出することなく塗りこまれているような感じがすると思うんです。その中である部分が前面化してくると、別の意味を作りそうだけれど、どこかの意味を作っていくのを止めているような、別のレイヤーがオーバーラップしていって、ひとつのものが前面に出てくるのを回避しているような、そういう画面をつくってるというところが凄く気になりました。見方によっては場所を選びそうなタイプの作品にも見えるかなっていう気もするんですよね。

小川: なんか、こう廃墟の様な、強さがありますよね。

木島: 今回この作品を作っていたのが横浜のZAIMさんの地下牢だったんです。そこはもう本当に空間が廃墟のイメージで。逆にすごく同化しちゃうんですよね。もちろんとても馴染む空間なので、そこでも展示したいなという気持ちはあったのですが。逆にそういうところで出来上がったものを、きれいな空間にぽんって持ってきた時に、どう見られるんだろうということに関心がありました。ZAIMの地下で制作していた時は、僕は絵を描いているつもりなんですが、ドアがないところだったので全然関係ない方でも見れちゃうんですよ。制作現場が。その時に、絵を描いてるって見る人がほとんどいなくて、工事してるとか、リフォームしてるだとか(笑)。それだけ馴染んじゃってるのかなって。

住友: そうするとかえって面白くないっていうところがあった?

木島: まあ、それはそれで面白いんですけど。

住友: 象徴性って言うのかな?高まりすぎるところがあるかもしれないですね。重くてちょっとその宗教的な感じとか。場所が求心力を持っちゃうというか。そういう感じと、あえてその作品が持っている特性とは全然違う場所に持ち込んで、その求心力がもっと拡散していく方が面白くなる部分ってあるかもしれないですね。

小川: コンセプトや、自分の作品が空間によって感じられ方ががらっと変わっちゃうっていうことに対して、もっと自分はこう見せたいというのはないですか?こういう風に受け取って欲しいんだみたいなのは。

木島: 色々な会場で展示をしましたけど、僕が直接聞く反応では、けっこうブレがないんですよね。これはどこにあってもこれ、みたいな感じに。

小川: それは、ちなみにどういう反応ですか?

木島: 遺跡っぽいとか、古っぽいとか(笑)。

住友: 今回の作品は上にあるものと下にあるものが、合わせ鏡のようになっていますよね。真ん中に入ると、足元にある文字であるとか、菊の花の形っていうのが全く同じ場所の上に見つけられます。今回こういう作品を作ろうと思った経緯を教えてもらえますか?

木島: 内情をいってしまうような感じになってしまうんですが、初めにこちらで展示をしないかというお話を聞いた時に、この箱に合わせて作品を作ろうと考えました。で、何故天井と床に配置したかですが、最初はここの壁を全部使って作品作りをしようかなとも思ったんです。それがやっぱり平面としてオーソドックスなやり方なのかなとも思うんですけど。壁にこう作品があると、真ん中がなんだか凄く無意識なものになってしまうような気がしていたんですよね。美術館でいえばソファが置いてあるような空間。だからそこをちょっとどうにかならないのかなぁと思って。同時にすごく大きい作品ですから、大きい作品を大きいって実感させるにはどうしたらいいんだろうっていうのがありました。

住友: 大きいものを大きいと見せる?

木島: はい。実感を持ってこれは大きいって感じてもらいたかったんです。そしたら上に乗っちゃって触れてもらうのもひとつの手だろうって。あと、これは凄く重い素材ですから、それがこう上に吊ってあるっていうのはやっぱりなんか、重さも感じてもらえるんじゃないかなって。そういう意図です。

住友: 面白いですよね。真ん中の空間はふつう、オーソドックスに考えたら壁を使うっていうのを、その空間のとらえかたみたいなものがすごく影響しているっていうのが、日本画出身の人でそういう描き方とかをするところも面白いし。空間に対する意識みたいなのがあるんだなっていうのが話しててもよく感じるんですよね。

小川: インスタレーションですよね。

住友: 完全にそうですよね。さっき小川さんが仰っていたのですが、会場に入ったときに目が慣れていない段階ではかなり暗かったと思います。足元は照明が斜めに当たっているので、足元にあるものから見るっていうことから入っていって、ある時間差を経て上の天井に気付く。ぱっと見てとらえるんじゃない。見て、感じ取るのに時間がかかるというのが、僕は好きだな、いいな、と思うんですよね。

小川: 閉塞感みたいなものも。上があるって気付いた瞬間に、急に囲まれてる感っていうのがあって。上に気付くと作品が重くなるというのが、最初に来て見させてもらった時に思いましたね。作品に含まれる記号について

住友: どうなんですか?その辺の絵解きは?気になっている人もいると思うので、もしよければ。

木島: まあ、ここに描いてあるのは「花」ですよね。一番分かりやすいのは。「花」と「文字」、あとこの辺に「鳥の足」があります。この黒い部分は「蛇」です。遠くから見ればなんとなく分かるなっていう感じです。あと、人が真ん中にいます。それもよく見ないと分からないと思いますが。

住友: 「花」と「文字」以外はよく見ないと分からないですよね。ただ、輪郭のような鉄のサビのところをずっと辿っていくと、線のようなものが浮かび上がるかなって思って一生懸命追ったりする、ってことは多分するでしょうね。

木島: そういういろんな仕掛けは入れてます。例えばこの、僕の目の前に小さい黒い「花」があるんですけど、この並びをずうっと辿っていったりすると何か発見できる、みたいな遊びは入れてます。

小川: じゃあ、1枚の絵画みたいなイメージで制作しているということですか?

木島: そうですね。やっぱり、おおもとのイメージは1枚の絵画です。その中でどうやって人に遊んでもらうかとか、考えてながら制作しています。作ってる本人が一番楽しいんですけど。

住友: その大きいものとか、空間をつくるようなものになると、あんまり意識しないっていっているけれども、ちょっと宗教的な空間に近づいていくようなところもありますよね。以前木島さんがヨーロッパに滞在していた時、例えばシナゴーグだとか、洞窟を見た時の経験がすごく強烈だったっていうのを仰ってましたが、どういう経験をしたのかお聞きしたいと思うんですが。

木島: 一番わかりやすいのは、僕は3年前にフランスのパリに1年ぐらい住んでいたのですが、その時見たラスコーの洞窟、凄く有名な、原始人が描いた壁画が描いてある洞窟を見た時の印象っていうのはやはり強烈でした。凄く深い洞窟をずっと降りて行くとやっと見れる絵があったり、この洞窟の壁の起伏とかが全部動物の形になぞって描いてあったりとか。その空間性が強烈だったっていうのはありますよね。ただ、それを再現しようっていう気はないです。あの強烈だった要素を取り入れられるものは取り入れたい、というのはあります。自由主義の多い現代の作家について

小川: (今回の作品の様に)始めは横浜の地下1階で廃墟のものであったものが、実際に地上に上がってきたら、全く別の見方をされるっていうのに対して、自分はむしろOKという感じなんですか?

木島: OKというか、それが自分の楽しみでもありますね。この大きな作品ですから、会場に持ってくるまで全貌が自分でも見えなかったりする。

住友: それ面白いよね(笑)。設計図みたいな、どのパネルにどの絵を描くっていうのは、作る?

木島: 作りますね。

住友: けれど、作りながら見れないわけですよね。全体像は。 木島: 見れないですね。

小川: 僕が住友さんとかにお聞きしたいのは、そういう今の僕らの世代といって良いかわからないですけど、作品に対してこう見えないといけないとか、こういう風に絶対感じて欲しいとか、こういうコンセプトがあるっていう人ってむしろ少ない気がしていて。

住友: 少ないですね。

小川: それはたぶんキュレーターや評論家にとってみると、凄くやりにくいような相手だと思うんですけど(笑)。

住友: そうですね。…そう、かな?まあ、それでもいいかとも思いますけど(笑)。

小川: その美術作家に求めるものみたいなもの、普通の一般の人も「これ、どういう意味なの?」って聞いてくることも多かったりするじゃないですか。別に「意味は自分でつくってください」っていう人が多いし、そういう状況をどう思いますか?

住友: 多分、傾向として確かにそういうのはあると思うんですよね。つまり、作品を通してあるメッセージだとか、昔だったらたとえば制度に対するアンチテーゼだったりとか、いろんなそういうものがあったりする。だけどそういうものがない人が多いっていうのは別にしょうがないと思ってますし。しょうがないというか、逆にそれは何でそうなんだろう?と考える材料になります。僕からとしてみれば。で、それはなんでそうなんだろうってこと自体が、なんでこんなことになったのか分からないっていうことではなくて。凄く納得のいくことでもあるから、それと付き合っていく。そういう現象と付き合っていくことがすごく面白いと思う。重要なのは、さっきの話ともちょっと似ていると思うんですけど、何か考え方を共有できるっていうことを前提とする社会自体がやっぱりあまりもう有効ではなくて、それにすごく文句いう人がいるわけですよね。いわゆる共有体験もないし、共有するイデアもないし。そういうのでいいのか、世の中、みたいなことをいわれるけど、僕はすごく凄くいいな、と思うんですよね。この人は何が僕の考えていることと違うんだろうと、聞く機会をつくることが作品を見ることだとしたらすごく美術には可能性があるな、という風には思っています。
(テープ起こし:相曽晴香)