TEXT - 言葉が先か、エクササイズが先か

中島水緒

2015年、Sabbatical Companyは「安息日を語源とし、専門性を磨く創造的な長期休暇を意味するSabbatical」をユニット名に据え、「いつでもサバティカルな時間をつくりだすこと」を活動のコンセプトに結成した*1。普段は個々のアーティスト活動に従事しているが、ユニットにおいては「ひとりでは見られない景色」*2を見るというテーマを持ち、集団ならではの可能性と時間の過ごし方を模索しているようだ。喧々諤々とした議論よりも他愛もないおしゃべりを、あるいは形式ばった展示発表よりも夏休みの計画のようなプロジェクトを——。サバカンの略称で親しまれる彼女らの活動は、「4人で遠足したいからこのプロジェクトを企画する」といったふうに、ときに動機と目的をあえて取り違えるような仕方でフレキシブルかつ遊戯的に展開してきた。
さて、今回のSabbatical Companyの個展は、gallery αMという大学運営のスペースでの開催である。ギャラリーや美術館のような制度的空間は、普段の役職や所属機関の外に飛び出すサバティカルな活動に馴染まないとも考えられるが、この空間に対するサバカンの回答はいかなるものだったか。

作品をつぶさに見ていこう。室内に展示された複数の映像作品は、いずれも「休日や休憩の合間に行うエクササイズ」といった趣きを持ち、展示期間外の誰もいないgallery αM、いわば休日のギャラリーを舞台に撮影されている。映像のなかでは4人のメンバーが、バランスボール、紙風船、ゴム跳び、フラフープといった健康器具・遊具を用い、それらの本来の使用方法を微妙にズラしたり、互いの動きに呼応させたりしながら、独自に開発したエクササイズを行っている。バランスボールの押し合いへし合いは初期映画のスラップスティック・コメディのコミカルな動きを連想させ、ゴム跳びを足でわざと踏んだりはじいたりする様子は自己流タップダンスのように逸脱的でリズミカルだ。紙風船には「う」と「ん」という平仮名が書いてあり、4人の手にはじかれて宙に舞うたびに「うん、うん」という相槌のやりとりや、「ううん」「うう」「んん」といった会話に伴うフィラーを多様に演出する。メンバーがフラフープを回しながらギャラリー内を歩く映像では、「個であると同時に複数である」「関係しつつ、関係しない」という暗黙の了解らしき空気が4人のあいだに漂い、スコアに忠実とも即興的ともつかない非人称の軌道を空間内に描き出している。
留意すべきは、これらのエクササイズが身体能力の洗練、すなわち技巧を必要としないということだ。エクササイズとは何かを行う前の準備運動なのだから、基本的には誰にでも出来る動作であるのが望ましい。サバカンのエクササイズはこの条件を踏まえ、技巧で遊具をコントロールすることもなければ身体性を駆使することもない、比較的ありふれた動作に徹しているかに見える。また、これらの映像作品において、エクササイズする主体がアイコンとして強調されない撮られ方をしているのも大きな特徴である。内面性やキャラといったものはここでは問題ではない。映像の主役はむしろ、バランスボールやゴムひもの弾力、フラフープの遠心力といった、運動に付随する諸力のほうではないかと思わされるほどだ。
より正確に言えば、道具、主体、そして道具と主体のあいだに生じる運動の諸力——この三項のバランスがサバカンのエクササイズにおいては重要なのかもしれない。エクササイズの機能と目的が「ほぐすこと」にあるのだとしたら、力を一点に集中させず、分散させたりバランスを取ったりして中立性(ニュートラリティ)を保つ工夫が必要となってくるからだ。そしてこれは、「個ではなく複数」というユニットの在り方そのものについても敷衍されるテーマであるはずだ。

ところでギャラリーの奥には、4人の共同作業でバランスボールの空気を入れる/抜くプロセスを撮影した映像作品があったが、「空気を抜く」という作業が「息を抜く」という慣用句にかけられた休日のメタファーであることは指摘するまでもないだろう*3。吸って/吐くという「呼吸」の機構はバランスボールだけでなく、息で膨らませる紙風船にも見出されるものであり、バランスボールと紙風船の膨張/収縮する形状は呼吸器官との類似性をも連想させる。さらに言えば、呼吸器官は「発声」に関わる重要な器官のひとつである。ここで、サバカンの活動コンセプトの根幹にある、「休暇」以外のもうひとつの大きなテーマが思い出される。そのテーマとは、「言葉になる手前の時間」を共に過ごす、というものだ。
サバカンのメンバーにとっておしゃべりの時間はとても大事なもので、友人同士ならではの気の置けない会話が活動のインスピレーションとなることも多々あるようだが、今回の個展において肝心のおしゃべりの「声」がいっさい封じられているのは見過ごせない要素である。6点の映像作品はすべてサイレント。ピクニックシートをギャラリー内に拡げて談笑するメンバーの姿を遠巻きに撮影した映像作品《エクササイズ/休憩》(2023)ですら、まったくの無音なのだ。思えば、「う」「ん」という文字だけが書かれた紙風船の応酬も、声の否定、意味内容の空無化、メッセージ性を持つことからの遠ざかりと捉えられなくもない。エクササイズ、すなわち本番に移行することのない準備運動に徹底して留まるというスタンスは、「言葉になる手前の時間」を延々と引き延ばす、「表現」に対してある意味反動的なサバカンのスタンスを象徴するものとなるのだ。映像作品のなかで、エクササイズや運動に付随する諸力は、言葉以前の言葉、もしくは言葉の代用物として機能しているかに見える。
言葉に対するサバカンのスタンスがもっとも如実にあらわれているのは、宣言文に赤字で添削を入れたポスター風の作品《Sabbatical Companyの宣言エクササイズポスター》(2023)だろう。ポスターにはたとえば次のような宣言文が箇条書きで書かれている。

・Sabbatical Companyは言葉になる手前の時間を過ごす。
・私たちは結論を定めない、それぞれに距離のはかり方がある。
・独自の時間を持ち、考え続けられる余白を持つ。
・遠足の計画を立てる。準備にも意味がある。

この宣言文に、メンバー4人が手書き文字で注釈や補足、疑問符、作図といったメタ情報を加え、「発話された言葉」の相対化と解きほぐしを行っているのである。20世紀の前衛美術運動がマニフェストを積極的に起草・発布することで自分たちの活動の基盤強化を図ったことを思い起こすならば、この作品は前衛美術のマスキュリニティに対するサバカン流のしなやかな批評というふうにも読み取れるだろう。マニフェストにせよステートメントにせよ、アーティストが発信する声明文の類は、「私はかくかくしかじかの狙いをもって表現しています、私がここで書いたように私の作品を見てください」とセルフプレゼンテーションすることに余念がないが、「宣言」の単語に決然と打ち消し線を引くポスターは、そのような言葉による基盤固めをストレッチのようにほぐし、セルフの輪郭をゆるめるのである。手書きの赤字はよく似た筆跡だが、よく見るとそれぞれの癖が感じられ、マジックの色味も微かに異なる。この微妙なグラデーションがSabbatical Companyというアーティスト・コレクティブの柔らかなつながりを物語ってはいないだろうか。
ちなみにメンバーは最初、「文字」に向き合おうとすると身体が硬くなってしまって宣言文になかなか赤字を入れられず、先に映像作品のためのエクササイズを行ってその映像を見ながら宣言文に再度臨んだら、自然と赤字を書き入れる作業に移れたという*4。つまり、エクササイズが言葉の出力に変容をもたらしたのだ。このエピソードは、マニフェストの「はじめに言葉ありき」の逆ルートをゆく在り方としても非常に興味深く映る。おそらく実際の制作過程では、言葉とエクササイズのどちらが優位とも断定できない、言語と身体が相互にフィードバックしあう状況があったのではないかと推測するが、はたしてどうだろうか。

もうひとつ、今回の個展に共通して、時間軸を「遡る」レトロスペクティブな感性が見受けられることを指摘しておきたい。たとえばいくつかの映像作品が初期映画のプリミティブな映像言語を連想させること。ゴム跳び、紙風船、フラフープといったレトロな遊具が使用されていること。20世紀初頭に端を発するマニフェストの歴史を相対化するような視点が見られること。大まかに括ればいずれも歴史の参照である。これが作家たちの企図によるものかどうかは分からないが、目的に向けてただ効率よく前進するのではなく、時間を振り返り、引き延ばし、遡り……といった様々なテンポの創出が、サバティカルな時間をより豊かなものへと変えているのは間違いないだろう。マニフェストは動機と目的を明示してこれから始まることをパフォーマティブに予告するが、サバティカルな営みは動機や目的に回収されない余白ある時空間やシナリオの外にある出来事を歓迎するのである。
もっとも、サバティカルな試みもgallery αMのようなギャラリー以外の何物でもない場所で発表されると、「制作活動の一環」としてアーティストの履歴に記録され、公に向けての発表となり、休暇の休暇たるゆえんが薄められてしまう矛盾もある。この問題に対しては、展示空間から感じられた「不在感」がひとつの回答となりうるかもしれない。ギャラリーの片隅に置かれた遊具の類は「すでに終わったエクササイズ」の痕跡であり、少し前のこの場所で撮影された映像作品は「彼女らはいま、ここにいない」という不在感を強めていた。あたかもギャラリー空間は、サバティカルな試みの本来の舞台ではない、というかのように。この場所にあるのは過ぎ去った休暇、その幻影である。鑑賞者は無音の映像を見つめながら、そのさなかにいるときは意識できない特別な時間としてのSabbaticalを追憶することになる。

 

*1 Sabbatical Companyのコンセプトについては公式ウェブサイトの以下のページを参照。https://www.sabbaticalcompany.com/about
*2 公式ウェブサイトの以下のページを参照。
https://www.sabbaticalcompany.com/project-1-afterword
*3 《Sabbatical Companyの宣言エクササイズポスター》(2023)には、「気を抜く=息抜きでもある」という赤字の書き込みが見られる。
*4 10月28日にgallery αMで実施されたアーティストトークの動画を参照。https://www.youtube.com/watch?v=ZYL6kLTUZKs&t=1s

 

▊中島水緒(なかじま・みお)▊
美術批評。1979年生まれ。主なテキストに「鏡の国のモランディ──1950年代以降の作品を「反転」の操作から読む」(『引込線 2017』、引込線実行委員会、2017)、「前衛・政治・身体──未来派とイタリア・ファシズムのスポーツ戦略」(『政治の展覧会:世界大戦と前衛芸術』、EOS ART BOOKS、2020)、「無為を表象する──セーヌ川からジョルジュ・スーラへ流れる絵画の(非)政治学」(『美術手帖』2022年7月号)など。