TEXT - 縄の向こう側を忍耐強く想像し思考する

吉良智子

現代の子どもたちが図工や美術の時間に学んでいる「写生」、つまり対象物をじっくりと自分の目で観察し、それを紙に表現する行為は、実際には非常に新しい。戦前の子どもたちは、教科書に掲載された手本を写すのが基本だった。これを「臨画」と呼ぶ。臨画の手本となるモティーフはさまざまで、人物から植物、昆虫、日常の風俗、風景、今でいうグラフィックデザインに近いものまで多岐にわたる。それらのモティーフは意図的に選ばれていて、子どもたちのジェンダーに沿った選択になっていることがわかっている*。たとえば男児には戦争や農業にかんしたモティーフ、女児には裁縫などにかんしたモティーフが推奨されている。こうやって日々の学びのなかでその時代にふさわしい子どもたちが大人によって作られていく。そうした大人たちの「欲」は、子どもたちへの一方的な押し付けではなく、「上手に描きたい」という子どもたちの「欲」を巧みに吸い上げる狡猾ぶりだ。

松平は、大人たちが考える理想の子どもたちが持つべき「欲」——それは大人たちによってゆがめられた「欲」であろう——を見据える。展示の構成は、小さい紙の支持体による作品とパネルの日本画が交互に並べられる。

小さい作品は、1930年代の日本と日本の植民地だった朝鮮半島で使用された小学生用の図画教科書および、日本が西洋画を導入する際の手本のひとつとなったイギリスの美術教育テキストに掲載されたモティーフを、松平が引用して再構成した作品である。

小さい作品では、それぞれの教科書やテキストからほぼ同じモティーフが選択され、二つ並べられている。日本版はカラー、朝鮮半島版・イギリス版はモノクロで描かれていて、まるで写真のポジとネガのようだ。なかでも日本と朝鮮半島のモティーフを引用した作品では、同じ時代の宗主国と植民地それぞれの子どもたちが同じようなモティーフを手本としていたことに気づかされる。現代では考えられないが、当時の子どもたちの図画教科書には戦車など戦争関連のモティーフが継続的に採用されている。こうして子どもたちは知らず識らずのうちに戦争やそれによる他国への侵略に対して肯定的な気分を育んでいったのである。

パネルの日本画に目を移すと、そこに何が描かれているのかを見るのを妨げるように最前面に白い縄が躍る。少し離れて見ると、その縄はとなりの小さい作品からさらに引用されたモティーフの輪郭であることがわかる。縄はあるところでは複雑にねじれ、あるところでは切断され、あるところでは燃えて炭化している。「一筋縄ではいかない」という言葉の意味のように、思うようにならない何かについて思考するよう促される。

思うようにならない何かとは何だろうか。松平の引用元には小学校の図画教科書だけではなく、イギリスの専門的な美術テキストもある。松平がいうように川上冬崖によって日本の美術専門教育のなかに導入された西洋の美術教育テキストThe Illustrated London Drawing-Bookには、石膏像や人体、窓から入った光の入射角度と反射角度を表した図など、それまでの日本にはなじみの薄いモティーフが並ぶ。

日本にとって近代化とは西洋化を意味し、その技術や思想を吸収することで帝国主義を内面化していった。そのプロセスは複雑で葛藤を伴う作業だったに違いない。ギャラリーに入って正面のひときわ大きい《venus kiss》(2023)はその帰結を表すかのようである。「ヴィーナスの口づけ」という甘美なタイトルとの落差がすさまじい。くだんのイギリスのテキストに表された光の角度の図に登場した台や石膏像が画中に引用され、台であおむけに寝る日本兵と彼を襲うヴィーナスの胸像は、近代化が遅れた日本にとって西洋文化の吸収が、好むと好まざるとにかかわらず強迫観念のうちに進行していったことをまざまざと見せつける。だが、見る者が一瞬感じる憐憫は、この作品においてのみ切断された縄の断片が形作るモティーフによって打ち砕かれる。縄の断片は敵に向かって突撃する日本兵の輪郭を成す。欧米列強に対しては劣位の側に留め置かれ、遅れた自己を受け入れざるをえない葛藤の一方、アジア諸国にはそのはけ口として支配欲をあらわにする日本の姿が浮かび上がる。こうした日本のあり方は、子どもの頃から繰り返し図画教科書などによって教えられた「欲」の積み重ねの結果であることが示される。

松平の目指す「誰かを搾取することなしに、楽しく世界を欲望する」には、もつれてねじれたちょっとやそっとでは解きほぐすことのできない縄に、少々の苛立ちを感じながらも忍耐強くその向こう側を想像し思考するほかはなさそうだ。複雑さや苛立ちを受け入れしつこく考え続けるその先に、今より少しだけかもしれないが、しかしよりよいあり方が見えてくるに違いない。

 

* 山崎明子「美術教育をめぐるジェンダー・システム」池田忍・小林緑編著『視覚表象と音楽』明石書店、2010

 

▊吉良智子(きら・ともこ)▊

美術史・ジェンダー史研究者、美術評論。1974年生まれ。主な著作に『女性画家たちと戦争』(平凡社、2023)など。ARTnewsJapanにおいてインタビュー形式の「見落とされた芸術家たちの美術史」を連載中(https://artnewsjapan.com/article/1007)。