TEXT - 遊戯痕–Task Traces

村山悟郎

子供が公園で遊んでいる場面を思い浮かべてみる。花摘み、スポーツ、缶蹴りなどだ。芝生には野花が咲いていて、それを摘んで集め、ベンチのうえに並べてしきつめたりしている。夕方になり子供達は家に帰ったが、帰り際に通りかかったあなたはベンチに並んだ花だけを見つめている。「ああ、ここで子供が遊んでいて、花を摘んで集めたのだな」と。
「花を摘んで集める」というインストラクションはシンプルだが、単調な行為ではない。あちこちを探索して、花を発見する喜び。みずからで定めたタスクを遂行してゆくことの全能感。タスクが蓄積されたことを跡付ける花々。「花を摘んで集める」というインストラクションと、その行為の結果として集まった花々、両者の関係はリテラルではあるが、その間に多分に想像力が介在する余地がある。このとき、その遊戯の痕跡–Task Tracesから、インストラクションや遂行的現実が想像されるだろう、その記号作用について考えたい。

河原温の《Today》(1966–2013)には、同様の想像力の膨らみがある。文字通りのことが文字通り、ただしひたすらに遂行される。「暦」という公知のシステムが借用され、それに行為者が連座することで*1、あらゆる人々にとって固有の、かつ社会的な年月日が想起される。文字通りでありながら、そこに別の情緒が差し挟まれる。このようなリテラルな観念–遂行は、一種のトートロジーと考えてもよいかもしれない。インストラクションとその遂行の間には、仮にそれがトートロジカルなものでも、鑑賞者の内の何らかの経験や想像や感情が介在しうる。うまく構想すれば、これらを喚起する優れたコンセプチュアル・アートが生まれる。
ところで、インストラクションとは、誰にでも遂行可能であることが暗に前提となっている。誰にでも遂行できる、ということは、それを再帰的に実行できるようなシークエンスにもなっている。タスクは反復され、その系列が痕跡として残ることになる。つまり、この反復の痕跡から、逆説的にインストラクションの内容が予測されうるのである。
ここで再び、公園で遊んでいた子供達を思いおこす。スポーツ、たとえば野球の素振りを練習する子供がいたとしよう。所定の動作を繰り返して、そこにはホームベースの印や踏み込みの足跡が残っている。素振りのフォームがブレないよう、ステップを意識して、自分の足跡を確認しながら動作を反復する。このように動作の精度や技術の洗練を志向するとき、行為の痕跡はフィードバックやキャリブレーション*2の徴になる。
ベイトソンは、木こりが木を切る場面を引き合いに出して、精神の在処を議論した*3。「私が木を切る」という〈主体–客体〉関係ではなく、木こりの場合、木に切りつけた最初の徴を目掛けて自己修正的に作動する行為のサーキットとして精神(メンタル・システム)を捉えるのである。このサーキットが「作品」になるようにインストラクションをうまく構成してやることもできるだろう。
ここでは先に述べたトートロジカルな反復とは、いささか異なる事態が生じている。インストラクション(野球の素振り)は変わらないが、反復することによってその内実が変容していくことを志向している。このとき観念–遂行には、非対称な、むしろ経験に優位性があるようにみえる。スポーツトレーナーが、そのつど選手に的確なアドバイスを与えるように、インストラクションの機微も、行為の徴も変わるであろう。このとき当初の観念–遂行–徴の間には、容易には解読され得ない隙間が生じている。

再度、公園のなかほどの広場に目をやると、中央にへし曲がった空き缶が立っている。ここで缶蹴りでもしていたのだろうか。この手のゲームには、地域によって異なるローカルルールが存在する。缶を複数にするとか、缶から半径何メートル以内に鬼は常駐してはいけないとか、公園のレイアウトも含めて、ゲームが成立するためにそれなりに複雑にルールを定める必要がある。とりあえずゲームを開始してみて、不具合があればルール自体を改定し、また再開する。
内部観測*4という考え方があるが、これは観測方法自体の変化を含んでいる。対象を捉えようとするとき、定点観測のように予め定めた観測法を完遂するのではなく、対象との関係において観測法が絶えず変容する。審判のいない子供の缶蹴りは、内部観測的ゲームと言えるだろう。ルールを変えながらゲームは発展してゆくのである。このとき観念-遂行-徴の関係は、ゆるやかで動的なネットワークとなり、内外を区分する。その内的ダイナミクスに参与しなければ捉え得ない現象となってゆくのである。
公園という場所には、このような容易ならざる[遊戯痕–Task Traces]が溢れていることを、私たちは知っている。公園というコンテクストから、その徴に多様なタスクを読み取り、想像することができるのである。ギャラリーにおけるコンセプチュアル・アートの痕跡の解読可能性もまた事態は同じである。私が本展を観て想起したのは、学生達が子供の頃にやっていた独自の遊びを再演しているような姿だった。この展示を教育の場として考えると、その意義はより明確になるだろう。公園で子供達を遊ばせておくことの教育効果は極めて高いと私は考えている(もちろん本展参加者は子供ではないが)。学習の内的動機を支える好奇心と社会参加を育む原初的な場だからだ。

ところで、インストラクションは、もっと詩的な言語が現実に先立って〔傍点:現実に先立って〕成立するようなケースに展開可能性はないだろうか。たとえば、〈重い–公園に–親しい–石を–浮かべよ〉。このようなインストラクションは別の現実を想起させる。私たちは、観念によって別様の豊かな現実性を獲得することも可能であろう。あるいは、脳障害で麻痺の生じた患者のリハビリの現場では、身体的感性と観念の脳神経接続を再組織化する作業が必要になる。コンセプチュアル・アートは、新しい観念の現働化を探索することで、もっと多様な可能性にひらかれるはずだ。

 

*1 峯村敏明「生きられるシステム」『美術手帖』1974年4月号(Vol. 26, No. 380)、68–71頁。峯村は、現実の中に見出されるシステムが芸術的変形の過程において共有されるさまを「借用されるシステム」と呼んだ。
*2 グレゴリー・ベイトソン、メアリー・キャサリン・ベイトソン「モデル」『天使のおそれ——聖なるもののエピステモロジー』(星川淳、吉福伸逸訳)青土社、1988年、79–82頁。ホルスト・ミッテルシュタットの述べる「フィードバック」と「キャリブレーション(勘による見当)」の区別をもとに、ベイトソンがした議論を参照。照準付きのライフルにおける誤差修正(フィードバック)と、散弾銃で鳥を撃つさいの手と脳と銃の調節と協調機能(キャリブレーション)。キャリブレーションでは、一回の射撃の中に誤差修正は行われず、内的メカニズムの調整と行動のサンプルによって行為の精度が向上する。
*3 グレゴリー・ベイトソン「形式、実体、差異」『精神の生態学(下)』(佐藤良明、高橋和久訳)思索社、1987年、660–661頁。サイバネティクスにおける〈精神〉の考え方について説明した一節。精神を、皮膚の外側にまで広がるメッセージの経路を含めて考える。木を切り倒す行為において、木の側面に生じる差異は、そのメンタル・システムの一部である。
*4 松野孝一郎『内部観測とは何か』青土社、2000年。経験世界の内側にあって、対象を同定する観測は絶えることなく、後続する観測行為を内蔵しつづける。これを内部観測と呼んでいる。

 

■村山悟郎(むらやま・ごろう)■
美術家、東京大学比較文学比較文化客員准教授。1983年東京都生まれ。博士(美術)。2024年現在、武蔵野美術大学映像学科・東北芸術工科大学大学院非常勤講師。 絵画を学び、生命システムや科学哲学を理論的背景として、人間の制作行為(ポイエーシス)の時間性や創発性を探求している。代表作「織物絵画」に見られるように、自己組織的なプロセスやパターンを、絵画やドローイングをとおして表現している。また近年は科学者とのコラボレーションによって、AIのパターン認識/生成や、人間のAIにたいする感性的理解を探るなど、表現領域を拡張しつづけている。