まず作品を「観察する」ところから始めたい。会場に入って右手側の壁面に、DMのビジュアルにもなっている図像のシルクスクリーンが表紙を示すかのように刷られている。文字を見えなくするために黒塗りされた不規則な並びが、印刷されるのを待っていたように網点になっている。消滅という言葉は消されず、入口であるにもかかわらず「Ⅱ」と付記される。空間には、天井からどこかの家屋から切り取られたような端材を基礎に吊るされた彫刻が七点、等間隔に点在し、それに対応するように各々使われたらしい粘土のはしきれに置かれたドローイングが、彫刻を見上げるように佇んでいる。彫刻はどれもテンションのかかった何筋かの軸を持ち、かならず特徴的なモチーフが一点ずつ設けられ、それらは複数の軸を繋ぐ役目を補っている。
ドローイングを見てみれば、おのずとそれが先に作られ、あとから彫刻が導き出されたことがわかるだろう。印字された「詩」を、なにかほかの「言語」で読み解くように描かれている鉛筆の線を追うと、彫刻の作られ方が見えてくる。塗りつぶされて、もやがかかった単語は意味を失い、ほかの言語を獲得し、彫刻のなかのあのカタチになっていることに気づく。大石一貴はそれをステートメントのなかで「ドッペルゲンガー」と呼んでいる。会場を奥に進むと、手に取りやすく設置された『消滅Ⅰ』が、黒地に白インクで刷られ反転した表紙をこちらに向けている。「Ⅱ」の不規則に連なった塗りつぶしとは違い、粒がまだ並んだままである。
人がイメージを作るための方法として、さまざまな言語がある。詩による言語、映像による言語、彫刻による言語、コミュニティのなかの言語。鑑賞者による言語の習得の違いで、作品は異なる見方をされる。日本語の言葉で作られた詩であるとしたら、日本語話者ではない人はその言語を翻訳して読むだろう。粘土の感触を知らない人が見たら、その形の所以をほかの要素からすくい上げようとするだろう。個々が持つ言語に対応させながら、そこに表現されたものを見ようとしたり、言語感覚をつかもうとする。詩、そして彫刻というふたつの言語によって描かれた「消滅Ⅱ」では、双方からそれを読む/観ることができるようになっている。片一方の言語しか備えていなくても、もう一方を観ることで徐々に別の見え方を知っていく。詩のなかにドッペルゲンガーを作り、粘土で物質化しているように見えるが、もうひとつ外の構造から見ると、この彫刻自体が詩のドッペルゲンガーだとも言える。では、詩集『消滅Ⅰ』は、そのドッペルゲンガーとして作られた彫刻と遭遇した「消滅Ⅱ」において、いままさに消滅してしまうのだろうか? そうだとしたら、誰によって消滅させられるのだろうか。
ドイツの小説家ジャン・パウルが、一七九六年に初めて小説のなかで「ドッペルゲンガー」を書いたとされている。もともとドイツの伝承だったお話が、十八世紀にそうして活字として現れ、十九世紀には精神医学の用語として、「自己」と「観察する」というギリシャ語を組み合わせた、オートスコピー(autoscopy)、自己像幻視(もしくは自己観察者)として定義される。ドッペルゲンガーという言い伝えが小説に現れ、人間の症状として名称を変えて認められていった経緯を見ると、症状に先立って語られてきた「現象」というものを、よくわからないおそろしい存在としていた当時の印象のまま、あらためて「消滅Ⅱ」を通していかに考えられるだろうか。そこでわたしが見たのは、作品における「仲介人」という存在である。
わたしはわたしが持ちうる「言語」で冒頭の作品の観察を書いてみた。人はみな、さまざまな言語をすこしずつ持ち合わせている。同じものを同じだけ持っている人はふたりとしていないだろう。(ドッペルゲンガーでさえなければ。)展示されている作品は、わたしが鑑賞するため目の前に立つことでその存在を指し示す。忘れてはならないのは、そのあいだにいる作家という仲介人なのである。仲介人とは、本体とドッペルゲンガー/オートスコピー/自己観察者のあいだに立っている存在だと仮定する。と、わたしの「観察」でまだ描かれていない、さらには作家の「叙事詩」的なステートメントにもあらわれていない、作品の持つ物質性が浮き上がってくる。人がついつい陥りがちな言語の問題からはずれるために、仲介人なくしてこれを語ることはできない。
土色とあわく色付けされた粘土、もう二度と同じようには表れないヒビわれ、ウインクするライト、朝と夜をつげるモニター、編み込まれた荒縄、羽虫のとまる網戸のような羽虫の網。ルールやコンセプトをよそに、作品というモノは目の前にれっきとしてある。わたしたちは文字を読むよりも慎重に、眼前の物質に目を凝らして、頭のなかでは言葉にならないイメージを抱えている。だからこそ、作家という仲介人によって、この「消滅Ⅱ」で彫刻は詩のドッペルゲンガーとなった。そこにあるのは、遭遇して消滅してしまったその現象ではなく、さらに現象以前にかえった、消滅そのものの存在を物質としてイメージすることなのかもしれない。
■青柳菜摘(あおやぎ・なつみ)■
アーティスト、詩人。映像メディアを用いた同時代芸術のアーティストとして、フィールドワークやリサーチをもとに、プロジェクトベースに主題を立て作品を発表している。近年の活動に個展「亡船記」(十和田市現代美術館サテライト会場 space、2022)、国立女性美術館(NMWA)第7回「Women to Watch」候補に選出(2022)など。詩集『そだつのをやめる』(thoasa、2022)が第28回中原中也賞受賞。コ本や honkbooks主宰。