本稿は、2024年11月30日–2025年2月8日に開催の展覧会「開発の再開発 vol. 8 Multiple Spirits|いつでもルナティック、あるいは狂気の家族廃絶」についてのレビューなのだが、まずはZINE『Multiple Spirits』から話しを始めてみたい。
2018年に創刊された日本発のクィア・フェミニズム系アートZINE『Multiple Spirits』は別冊含め現在5巻目を迎えており、アーティスト・俳優の遠藤麻衣とキュレーター・批評家の丸山美佳の編集を軸に、様々なアーティストが寄稿してきた。それらは、自身の生活と来歴、作品とその制作から混然一体と紡ぎだされた、アイデンティティポリティクス以降のあらゆる表現や実践に繋がる逡巡のしずくだ。また、根来美和がクィア理論やデコロニアル理論の検証を通して「キュレーション評価」を論じたのを筆頭に*1、『Multiple Spirits』は「複数的な評価の方法/在り方」を極めて具体的に並行して提示してきた。「地球全体で同時的にフェミニズムの痕跡を地球の(今日のように深く結びついた)物理的かつ政治的な地層へ転移する」ことを掲げる「ガイナシーンのためのマニフェスト」*2の訳出など翻訳も盛んであり、これもまたキュレーション批評のツールとなるテキストだった。
「Multiple Spirits」について、本展のキュレーターである石川卓磨は、遠藤麻衣と丸山美佳によるコレクティブでもあると名指す。しかしながら、本展には様々な人物の制作物が並んでいて、その様はZINE『Multiple Spirits』そのものである。展覧会としての最初のページを飾るのは廃材の合板に黒い墨と油性ペンで書かれた燃えるような文字の「No旦那No主人」。それは「政治的な鬱」を刷り上げるという〇九一四の作品だった。
2000年頃から鬱とは政治的・経済的な分配の欠損によるものであるという指摘は存在し*3、政治的な鬱(病)は、「社会や政治の機能不全、自らの人生の選択においてコントロールを失った感覚から生じる状態」として近年論じられてきた*4。「旦那」や「主人」がパートナーの呼称なら自己で選択可能にも思えるが、己の生を自分で握れているかという問いだとしたら、どうだろうか。
武蔵野美術大学が2024年7月11日に発表した「留学生の修学環境整備費の新設」*5への諸抗議活動に対する大学側の7月17日のコメント*6をrajiogoogooがTシャツにプリントし、壁に鉛筆で補足情報を書いた《Re: 構内での器物破損行為について》。たとえばデザイナーのキャサリン・ハムネットによる1980年代のメッセージTシャツ「SAVE THE WORLD」「VOTE TACTICALLY」とは違って、rajiogoogooが刷ったのは何の主張でもない。プリントされているのはただただ大学からのリリースのスクリーンショットだ。わたし自身、大学院は会社員を経て自費で通ったので、留学生1人当たり年間363,000円の追加徴収が当時あったら退学だったと暗算できる。そのような状況が、出自に依拠する理由と「国」というレトリックを軸に排斥的に課されることへの衝撃が、モニュメントになっている。
作品リストに掲載されたもの以外にも、会場にはコピー本や書籍にタペストリー、デモに持参するというグッズと様々なものが点在した。だがこの展示構成には、入口側の〇九一四やrajiogoogooによる脱技術的な作品と、奥の方にある、エイミー・スオー・ウーの《霹雳》(2017)や壁面にループで流れるミュージックビデオといった、極めて装飾的で洗練された趣向を背負う作品群というように、スタイルの違いが存在する。その違いに事物のバラバラさ以上の摩擦、自己決定可能かどうかという、ある種のパワーの格差を幻視するが、はたしてそういう問題なのか。
最も奥の部屋にあるエイミーの《霹雳》はパッチやリボンで構成され、そこには端正に英文が刺繍されていた。グリッチのように文中のEが横に思いっきり引き伸ばされていて、何が書かれているかというより、そこに一定の趣味の質感、装飾性を見出す。傍らには、そのパッチやリボンを身にまとい中国をはじめとする世界中の都市をゆるやかに歩く青年たちの映像。有り体に言えば、ささやかだが眩しいかっこよさがそこにはあった。「英語でなにが書いてあるの?」「QRコード読み込んでみて」。
パッチやリボンには亡命先の東京でアナーキズムとフェミニズムを扱った中国語の雑誌『天義』を1907年に出したメンバーのひとり、何殷震の言葉が刺繍されていた。「息子も娘も同じように扱われ、同じように育てられ、同じように教育されるなら、男女が担う責任は必ず平等になる」。このファッションの質、かっこよさを認識し合えるという相互認識が担保となって、エイミーは何殷震の言葉を道行く人に伝えていく。時にかっこよさは、瞬時に万人をかき分け、あなたにこの言葉を伝えたかったという符牒となるのだ。社会学研究のヨン・ヘウォンがいうとおり、趣向は不可逆的な差異を暗示すると同時に、代替的な共同体を形成する媒介として立ち現れる*7。
では、もう一方の洗練された趣向は何を照らすか。《霹雳》の手前の壁には3つのミュージックビデオがループで流れていて、そのうちのひとつが遠藤麻衣×百瀬文 prod. 藤本一郎《デコロナイズ・ミー》(2024)で、歌うふたりの「Y3K」スタイルのメイクが印象的だ。“Year of 3K”とは、3000年時代を想うスペキュラティブなルックの模索であり、実際的にはVRの3DアバターやAIによる生成グラフィックによる人体、つるりとしつつ、メタリックな質感をともなった、ドラァグとレトロフューチャーの更新ともいえるスタイル。植民地主義の唾棄を求め続けるながい道のりを思わせると同時に、そのあまりにリッチで洗練されたワンカットを目の前にして、美学の流通を視聴数という貨幣的価値に換算し、富の偏在を加速させる産業とこのMVの同一性をどう考えられるだろう。
このことを考えるために、会場入口付近にある遠藤麻衣(Multiple Spirits)《いつでもルナティック》(2024)を見てみたい。本作を短く説明するなら「美少女戦士セーラームーン」の二次創作だ。月野うさぎは軽自動車のハンドルを握り、助手席にいる水野亜美は運転をサポートしようと声をかける。ボンネットに腰かけた火野レイはタブレット端末を横目にうさぎを眺め、車の手前には「CEASE FIRE」と停戦を呼びかけるTシャツを着た木野まことがマウンテンバイクに乗って前方を見定め、車の奥にはスマートフォンを手に愛野美奈子が鑑賞者の方を見つめている。
セーラームーンの主人公たちは、日本有数の高級住宅街、東京の麻布十番に住む経済的に豊かな少女たちで、物語に出てくる車といえばフェラーリ。扉絵などに登場する衣服もシャネルやディオールといったハイブランドのコレクションが下敷きだった。でも、友と協力して困難に向き合うことがデフォルトで、いかなる性にも愛にもちゃかしは介せずクィアで、戦う力がある主体として少女を位置づけつづけた「セーラームーン」にどれほど自分が力を貰っていたか、振り返って分かる。
でも、そのブランドの意味はわたしにとって変わってしまった。だからって、「昔のマンガ」としてひっそり、自分が都合よく読み飛ばして慰みにするしかないのか。いやそうでなく、彼女たちが何度も困難に挫けず立ち上がり守ったものを今も信じたい。だからと遠藤は切り返す。自分のための物語に描き直すのだと。
いまK-POPのファンダムはヨンが述べるように、二次創作に関する最も苛烈な議論の場のひとつであり、そこでの二次創作とは、時にクィア・ファンがファンダム内のクィア当事者の可視化の手段でもある。その行為は、自身が「熱烈に支持するアーティストとその事務所関係者が自身のクィア・アイデンティティを嫌悪することを防ぎ、それに適切に対処し、抵抗する」ものなのだ。アイデンティティと結合した二次創作は、表明であり、運営への参画である*9。そもそも少女マンガとは、与えられる教育としての児童文化ではなく、共有空間を享楽するものであり、作者と読者が混然一体となったユートピア的フィールドとして成立してきた*10。描き、耕すものとしての少女マンガの現在の形がここにある。
これをMVに対し応用して言ってみると、これから無数に生み出される「Y3K」に紐づく表象への先制的な意味の導線の創造、参画としても《デコロナイズ・ミー》は存在する。「人間を脱するルック」としてY3Kが位置づけられるなら、そのルックの出口や参照先は無限に存在しうるものであり、結果的に単にファッションの可能性の束を指す言葉になりかねないY3Kは、平等と結託することができるファッションかもしれないと思えてくる。
かっこよさといったルックの強さだけが共同体を立ち上げるのではない。脱技術的であることもまたひとつの系譜を持つし、Tシャツも、木版もまた、それぞれが抵抗の歴史という縦軸を手繰り寄せる契機となる。場合によっては、すでに在る「スタイル」に乗るのではなく、ゼロから作り上げればよいのではないかと思うこともあるだろう。しかしそれは、ダナ・ハラウェイのサイボーグ・フェミニズム宣言が極めて「ユーザー視点だ」と不満を漏らすようなものだ*11。いやだって「世界」はずっと存在してきたのだから。あなたもわたしもその中で生きてきたのだから、その後に立つことを受け止める方法論が重要なのではないかという返答がここでも意味をなすだろう*12。Multiple Spiritsは過去を更地にするのではなく、その後を生きるということを受け止め、すでにある言葉や状態を読み替え、接ぐ、複数性の創造を示すのだ*13。
*1 根来美和「定位を揺るがすキュレーション——直線思考へ 抵抗と越境する身体の連帯を求めて」『Multiple Spirits vol. 3 ある光は野望 ある光は彷徨う』Multiple Spirits、2023年、77–87頁。
*2 アレクサンドラ・ピリチ、ラルカ・ヴォイネア(丸山美佳訳)「ガイナシーンのためのマニフェスト—新たな地質年代についてのスケッチ」『Multiple Spirits vol. 2 色褪せない光の地図』Multiple Spirits、2019年、88–89頁。
*3 Christopher Ojeda, Depression and Political Participation, 2015.
https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC4764256/(最終アクセス2025年1月14日)
*4 阿古智子「中国で頻発する無差別殺傷事件:『原子化』された社会の『政治的うつ病』」『ニッポンドットコム』2024年11月26日。https://www.nippon.com/ja/in-depth/d01078/(最終アクセス2025年1月14日)
*5 「留学生の修学環境整備費の新設について」『武蔵野美術大学公式ウェブサイト』2024年7月11日。
*6 「構内での器物損壊行為について」『武蔵野美術大学公式ウェブサイト』2024年7月17日。https://www.musabi.ac.jp/news/20240716_03_04/
*7 ヨン・ヘウォン編著『K-POPはなぜマイノリティを惹きつけるのか』河出書房新社、2024年、6–7頁。
*8 シャネルの共同オーナーであるアラン・ヴェルテメールはシャネル名義でイスラエルに献金を行っており、2025年現在、シャネルはBDS(商品ボイコット)対象のブランドである。(以下参照のこと。https://www.universityoffashion.com/blog/how-the-fashion-industry-is-responding-to-israel-after-the-hamas-attack/)
*9 ヨン・ヘウォン編著『K-POPはなぜマイノリティを惹きつけるのか』河出書房新社、2024年、14頁。
*10 米沢嘉博『戦後少女マンガ史』筑摩書房、2007年、43頁。
*11 たとえば『Machine Art in the Twentieth Century』(2016)でのアンドレアス・ブレックマン。
*12 方法論としての「ガイナシーン」もたとえば、「女性らしさ」をジェンダーとしてでも、“自然な”状態でもなく、“文化的な状態”へと意味の書き換えを提起する。
*13 筆者自体はこれまでたとえば「女性性」や「男性性」といった言葉の使用自体の棄却、それを背景に持つ概念の問題提起を行ってきたが、本稿を経て、「意味の書き換え」自体の可能性について検討していこうと思った。
■ きりとりめでる ■
デジタル写真論の視点を中心に研究、企画、執筆を⾏なっている。著書に『インスタグラムと現代視覚⽂化論』(共編著、ビー・エヌ・エヌ新社、2018年)がある。2022年に「T3 Photo Festival Tokyo 2022」のゲストキュレーターを務めた。AICA会員。美術批評同人誌『パンのパン』を発行している。