記憶と構造のゆらぎの中でー この複雑な世界を、どのように浮き、泳ぐことができるのだろうか
大槻晃実
市ヶ谷という土地に立ち止まり、振り返ることから立ち上がったvol. 4は、歴史の深層に触れ、私たちの信じる「正しさ」の輪郭を小さく揺るがす試みである。
京都を拠点に活動を続ける髙橋耕平は、その土地に根ざした視点から歴史と現在を編み直す作品を発表してきた。都市の記憶や記録を拾い集め、映像や写真、言葉を通して、見えない構造や忘れられた声を浮かび上がらせている。
今から5年前、コロナ禍の静まり返った夏の夜、髙橋はあてもなく東京の街を歩いていた際に新宿区富久町を通りがかった。空き地が目立つ区画整理中のその場所は、かつて東京監獄市ヶ谷刑務所があった土地である。その跡地に設置された富久町児童遊園内には刑死者慰霊碑が佇んでいた。その記憶が起点となり、そこから導かれるように「大逆事件」と和歌山県新宮市との関係へと関心が向かっていった。
1911年、幸徳事件(大逆事件)により死刑判決を受けた24名のうち、実際に処刑されたのは12名である。その中には和歌山県新宮出身の6名(刑死者は2名)が含まれていた。彼らは「新宮グループ」と称されていたが、実態としての結びつきはなく、国家によるフレームアップの象徴とも言える存在として、現在は記録されている。
幸徳秋水を中心とする初期社会主義者たちは、自由や平等を掲げながらも、当時の国家体制にとっては「逆らう者」として扱われた。彼らの思想や活動は、十分な証拠もないまま「大逆罪」として裁かれ、死刑判決が下された。これは、国家による思想弾圧の象徴的事件であり、後に冤罪であったことが明らかになるまで、長い沈黙の時代が続く。その後、死者への追悼と尊厳を顕彰するようになったが、彼らの墓には戒名が刻まれていない。
本展では、彼らの墓と新宮の風景を中心とした写真、そして丸太が主要な構成要素となっている。貯木場で浮かぶように配置された丸太の表面には切り込みが入れられ、天地が「順」と「逆」に分けられた写真が差し込まれる。展示室の床を水面と見立てるならば、私たちは水上からその光景を眺めているのか、あるいは水中から見上げているのか、その境界は次第に曖昧になっていく。同じ場所であっても、異なる方向から眺めると景色が変わるように、主体と客体のそれぞれの語りによって「事実」は幾通りにも立ち現れてしまうことを想起させるだろう。
材木は新宮の産業の象徴であり、かつて海路を通じて東京へと運ばれていた。今回の展示でも、紀伊山地原産の材木が新宮から東京へと移送される。物質の移動、人間の移動、思想の移動。それらが文化を育む一方で、同時に誤解や偏見をも生みだしてしまった。新宮の交流の歴史が、捏造された構図を生んだことは、現在の社会にも通じる構造的な問題を示唆しているように思う。
そしてこの展示は、美術における「中央」と「地方」という構造にも問いを投げかけることにもなる。今回運ばれる材木の軌跡は、物質の移動だけでなく、文化や記憶の移動をも暗示している。東京で展示される新宮の記憶は、単なる地域史の紹介ではない。それは、地方に根ざした視点から中央を見返す行為であるといえる。地方に生きる人々の思想や文化が、中央の制度や権力構造によってどのように記述され、時に歪められてきたのか。その歴史を見つめ直すことは、美術の未来においても不可欠な営みであろう。
歴史は人間が記述するものであり、「順」と「逆」もまた人間が定義する。本展は、死者の声を聴き、記憶の装置としての墓や写真を複合させることで、過去を現在に引き寄せ、未来への問いを投げかける。
児童遊園の慰霊塔は今後どのように継承されていくのだろう。100年後もその形を留めているだろうか。その判断もまた、人間の手に委ねられている。