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2026年2月4日

彫刻が通るところ

沢山遼

上村卓大は、彫刻と呼ばれる概念に深刻な動揺をもたらすことによって、彫刻の核心部に触れ続けてきた作家である。上村の彫刻は、しかるべき技術、段階的な物質の組成、強い確信に支えられた構成能力によって造形される物体である。が、彼にとっての彫刻とは、物体としてのプレゼンテーションそれ自体のことではない。上村の彫刻は、物体としてのあり方を突き抜け、物体が存在することの根拠のなさこそを露呈させる。そこでは、物体としての彫刻が肯定されると同時に否定されている。観る者は、見慣れたはずの物体の見慣れぬ姿に困惑することになる。
 彫刻をつくることはまず、世界のなかに一定の空間の量をもたらすこと、それがある特定の空間を占有することである。巨大なFRPの円筒形の彫刻《lung》は、その内側を空洞にしている。会場には、それが2個ならぶ。上村によれば、人が一日に呼吸する量は約10〜15m³(10,000〜15,000リットル)であり、円筒形2個でおよそ4人分が呼吸する空気がそこに詰まっている。とすれば、そこに現前するのは、人が吐き出し、吸い込む空気の量そのものである。彫刻が物質の塊(マッス)ではなく、空間の嵩張り(ヴォリューム)であるならば、この彫刻が指し示すのは、空間の嵩張りとしてのヴォリュームそのものである。
 この彫刻がある場所から別の場所に移動することは、この空気の量が移動することである。同時に、私たちの呼吸する空気もまた、身体の内部と外部をいったりきたりしている。彫刻は、そのようにたえず移動する空気の嵩張りを捉え、それを彫刻のヴォリュームへと変換する。
 このとき彫刻のヴォリュームは、物体として固定することができず、また可視化することも、ある場所に留めおくこともできないなにかとして捉えられている。彫刻は、この見えない、たえず移動しようとする空間の嵩張りを一時的に捉える装置としてある。これが「lung」すなわち肺であるならば、そこに認められるのは、人体から出し入れされる空間の塊それ自体が彫刻であるという認識である。
 ミケランジェロの彫刻もまたそのようなものであったのかもしれない。ネオプラトニズムを背景とするミケランジェロの彫刻にあって、とりわけその奴隷像に顕著なように、人体は魂を幽閉する牢獄であり、魂はそこから逃れようともがく。ミケランジェロの肉体のもだえ、ねじれは、内部に幽閉された魂とその外殻との葛藤、力の干渉として与えられている。つまり、そこにあるのは、内側から外に拡張しようとする力と、それを外側から押し込めようとする力の葛藤である。肉体とは魂の容れ物=コンテナーである。このコンテナー(外殻)とコンテンツであるところの魂の遭遇・葛藤を通して、彫刻のヴォリュームが形成される。
 上村の前作は、金網の内部に野菜が詰め込まれた野菜販売機であった。誰でも、そこに百円を投げ込めば、野菜を買って持ち帰ることができる。同時にそれは、内部空間をもって野菜を幽閉する金網のヴォリュームでもあった。だからその内部に野菜を詰め込むことができるのである。その装置を通して野菜を買う。その野菜はいずれ胃袋へと流し込まれる。魂を幽閉する石の塊が彫刻であるならば、同様に、空気の入った肺、食べ物によって膨らんだ胃もまた、彫刻である。
 四〇歳の成人ならば、これまで300トン以上もの空気、食物、水を吸収してきたことになる。それらは一時的に肉体に係留し、やがて離れていった。そこを通過した膨大な数の原子は、部分的に肉体の一部として残り、そのほかのものは、いまも宇宙空間のどこかに存在しているはずである。肉体とは開口部であり、出入り口である。彫刻が対象とするものが身体であるなら、その身体の背後には、300トン以上の嵩張りが存在している。
 いずれにせよそこでは、たえず別の場所に移動しようとする空間の嵩張りこそが彫刻であると捉えられているかのようだ。ある会場に固定電話の回線を引く《「〈0927535225〉もしくは〈スカスカのオブジェ〉」》(2024)もまた、これと同様の運動系を共有している。電話回線を引くことは、既存の空間に新たな回路を開くことであり、そこに別の空間が侵入することである。鑑賞者は会場から自分の携帯電話に電話をかけ、着信履歴を残す。その着信履歴もまた彫刻である。NTTとの絶え間ない交渉を通して、ある場所に固定電話を敷設しようと奮闘する作家の行為は、そこに新たな回路を開くための制作そのものである。そのとき彫刻は、対象とその外部を丸ごと呑み込むことによって形作られる。トポロジカルに異なる二つの位相を同時に包含する一つの位相を指し示すこと。そこにある空間の嵩張り。私たちはそれを彫刻のヴォリュームと呼ぶ。
 それは突如として出現し、また別の場所に逃げ去っていく。上村は、自らがもちうるあらゆる手段と技術を使い、それを彫刻として現前させる。