相川勝・小沢裕子 ≪rhythm≫ 2016 |写真:木奥恵三
1.
rhythm──と入口に書かれている。柱が並ぶ広がりのある空間には、何もない。ただ照明がスイッチ音を鳴らし、ショートしたかのように、一斉に点滅している。しかし、周期的な律動を表すrhythmという言葉に対して、その点滅は余りに不規則である。
鑑賞者は何らかの規則性があると推測したはずである。身体の動きがセンサーに反応しているのではないか、というように。確かに、まずセンサーが想像された。けれどもなぜ、ランダムな値でプログラミングされていると考えるより先に、センサーを探したのであろうか。前者ならば受動的に、後者ならば能動的に振舞うことにもなりうるのだが判然としない。鑑賞者は、何らかの規則性があるはずのrhythmの中で、擬似乱数列と乱数列の間へと迷い込んでいく。
rhythmとは何か。奥の壁には文章が映し出されている。白い壁に白い字でプロジェクションされ、照明が消えている間しか読むことはできない。消灯は(逆説的に)フラッシュのように一瞬である。点滅の規則が説明される。
「ここにいるひとりの人物」とは「(常に)ここにいるひとりの人物」、すなわち監視員である。監視員のかける眼鏡に、瞼の開閉を検出するセンサーがセットされている。
通常、点灯している展示空間の照明は、瞼を閉じるという動作のたびに消灯する。見ているときに点灯し、見ていないときに消灯するのだから、瞼の開閉を行う人物にとっての視界は照明が点灯している状態であり続ける。ゆえに異質なのは、鑑賞者にとっての消灯している=見られていない瞬間であり、そこから反転する、点灯している=見られている(可能性のある)時間が生じることだ、とまずは言える。
このときジョン・ケージによる作曲で、デヴィッド・テュードアがコンサートにおいては開かれたままのピアノの鍵盤の蓋を閉じ、鑑賞者に意識されていなかった音を聞かせた4分33秒間が想起されるであろうか。そしてマーティン・クリードが展覧会においては点けられたままの天井の照明を消し、鑑賞者に意識されていなかった空間を見せた5秒間も。しかし、留意すべきは、ケージの音を出さない楽曲が、感覚遮断するために入った無響室での体験、すなわち鳴り止むことなく聞こえてくる神経系統が働いている高い音、血液が循環している低い音によって導かれたことである。言うまでもなく、瞼の開閉は、聞くことに対する心音、動くことに対する呼吸のように、見ることを前提とする視覚芸術にとって最も至近な生体反応に他ならない。その開閉にかかる時間はおよそ0.1秒間である。
鑑賞者は瞼の開閉と照明の点滅、すなわち視界と空間が直接的に同期させられていると知り、他者が見ている領域そのものに入り込んでしまったように感じるかもしれない。瞬き(またたき)と瞬き(まばたき)が、相川勝と小沢裕子によって、クリードの暗闇を引き入れながら、ケージの楽曲の契機となった身体の生み出すrhythmの方へと近づけられていく。
2.
人間は目を開けて覚醒している間に平均して一分間に十数回、両目を閉じる。この動作は、開閉を意識的に行う随意性瞬目、目を保護する、あるいは驚くなど外的な刺激によって開閉が反射的に行われる反射性瞬目、そしてこれら二つの瞬目を引き起こす要因が特定されないにもかかわらず開閉する自発性瞬目の三つに分類される。自発性瞬目は、眼球の湿潤に必要な頻度を大きく上回ることもあり、心理状態にいっそう深く関わると考えられている。
なぜ人間は自発性瞬目をするのかと問いたくもなるが、しかしここでのrhythmが、これら三種類の瞬目の組み合わせ(センサーが片方のレンズにしかつけられていないため、片方の瞼を閉じ、密かに合図を伝達しようとするウィンクを含む)によってのみ不規則だということではない。そのrhythmは偶然に向かって投げられているのだ。奥の壁に書かれた文章には続きがある。
この空間内で振舞う鑑賞者の、意識的、反射的、心理的な「動作」および「瞬目」を通じ、監視員の何気ない瞼の開閉が引き起こされている可能性がある。われわれは、私/あなた/彼・彼女……という人称とともに、相互に反応し合い、断続的に関係を結んでいる。けれども、ここでのrhythmは、むしろ自己/他者を含め、誰にも気づかれずに行われている動作の掛け合いによって、そうした関係以前にある連鎖の中でとられているのである。
ギャラリーに入り、まず照明の点滅の不規則性にセンサーを探したのは、そのrhythmの向こうに、自分自身を含む、人間という非機械的なセンサー同士の伝播が、能動的でも受動的でもあるような中間的な在り方で連鎖している、とすでに感知されていたからであろうか。少なくとも、それはコンピュータの規則的な演算によって不規則であるかのように生成された擬似乱数列でも、規則性をまったくもたない乱数列でもない。瞬き(まばたき)と瞬き(まばたき)が、複数の人間の行う直接的/間接的なコミュニケーションの流れに任せ、意識的、反射的、心理的な領域から無作為に抽出される値を、いたるところで回路へと侵入する電波のように飛び回らせ、連動させているのである。
3.
なぜ、このような現象が生起させられているのであろうか。その一端は、オープニング・パフォーマンスにおいて表されている。マイクに向かい話をする一人の役者にイヤホンが付けられ、そこへ相川と小沢が携帯電話を使用し遠隔から話の内容を伝達する。このパフォーマンスは2014年に小沢がアバターで自己を移し替えるように、遠隔から役者に言葉を代弁させたアーティスト・トークと同じ方法がとられている。ただし一対一であった関係は二対一へ、すなわちメッセージは二つの主体から一つの主体へと送り込まれるという点で変更がなされた。複数の人間から一人の人間へとシグナルが送り込まれる。このことは鑑賞者とセンサーをセットされた監視員の関係に重なり合う。そして、二人の作家性をもって一人の作家であるかのように制作することにも。
こうした接続を、正確にとらえるための手がかりとなるのは、二人の制作に垣間見られる二つの共通点である。まず相川には、既存のCDアルバム(ジャケット、帯、歌詞カード、アンケートハガキ、CD本体)を丁寧に描き写した「CDs」(2010-)のシリーズがある。受動している音楽媒体に対し、可能な限り精緻に複写する方法でフェードインしながら、自身の痕跡を馴染ませていくかのようなフェードアウトをみせている。一方、小沢には、インターネット上にアップロードされている既存の動画に字幕を入れた映像作品(2010-)のシリーズがある。受動している映像媒体に対し、あたかも初めから付けられていたかのように字幕を上書きする方法でフェードインしながら、やはり自身の痕跡を馴染ませていくかのようなフェードアウトをみせている。さらに、そのフェードアウトに対し、相川が複写したパッケージの中に、元になるミュージシャンの楽曲を、音と記憶を頼りに没入するアカペラで歌い直し録音したCDを入れる方法、小沢もまた上書きした字幕そのものが、次第に登場人物を超えて誰のものとも判別できない人格を宿し語り出す方法で、それぞれ自己と他者の境を曖昧にする、痕跡を滲み出させていくようなフェードインをみせているのである。
二人の制作には「既存のメディアに介入しながら自身の痕跡を馴染ませていく/自身の痕跡を馴染ませながらも滲み出させていく」というなだらかな二つのクロスフェードを見つけることができる。CDや動画という他者の作品に依拠しつつ、あくまでも気づかれない程度に介入しようとする点、そして歌い直したアカペラ、上書きしたセリフという二人が残した痕跡に気づいたならば、(つい笑いがこぼれてしまうほどに)隠しきれない存在感が溢れ出す点において通じているのである。
相川と小沢による、自身の痕跡(=複写/上書き)を馴染ませながら、声(=アカペラ/セリフ)を滲み出させていくことで生まれる作品は、誰も意識していない監視員の瞼の開閉という小さな動作から、誰もが意識してしまう照明の点滅という大げさな事態を引き出している在り方に等しい。言い換えれば、二人の制作における二つのクロスフェードこそが、センサーとスイッチへと置き換えられているのだ。
センサーは監視員の眼鏡に、スイッチはギャラリーの照明に隠されている。その装置の中で、赤外線センサーによって瞼の開閉のおよそ0.1秒間にあるグラデーションがシグナルへと変換され、変換されたシグナルは点灯速度が最短であるLEDライトのスイッチとなって音を鳴り響かせながら照明を点滅させる。瞬き(またたき)と瞬き(またたき)が、二人の制作において、なだらかであった二つのクロスフェードを、一つの装置の回路の中で直結させているのである。
4.
介入しながら消えていき、消えていきながら現れるという二つのクロスフェードが、瞼の開閉をシグナルへと変換するセンサー、およびシグナルを照明の点滅へと変換するスイッチにあるそれぞれのインプット/アウトプットに置換される。この回路の中で引き起こされる変換を考察するにあたり、オープニング・パフォーマンスと対をなし、クロージング・パフォーマンスはきわめて重要である。パフォーマンスの内容は、相川が「CDs」のシリーズにおいて録音したアカペラのように、インターネット上にアップロードされているミュージック・ビデオをセレクトし歌い直し(相川は映像を見ずにヘッドセットから流れる音楽に集中している)、その声を自動音声認識が文字へと機械的に変換しモニターへと映し、そこで変換され続ける文字を小沢が読み上げる(小沢は読み込まずに文字を追いかけ淡々と発声している)というものである。このパフォーマンスは2015年に相川と小沢自身が別々の変換装置となるように行われたものと同じ方法がとられている。ただしその際に小沢は相川と同じくオリジナル音源をヘッドホンで聞いていたが、音源/相川/文字/小沢と一つの変換装置となるようダイレクトに入出力されるという点で変更がなされた。作家たち自らがそれぞれにインプット/アウトプットの変換装置となってシグナルが送り込まれる。このことは再び瞼の開閉を検出するセンサーと照明を点滅させるスイッチとの関係に重なり合う。
オープニング・パフォーマンスとクロージング・パフォーマンスで行われていることを素直に受け取れば、端的に一つのことが表されていよう。前者では二人の声がマイクを通し別の人物のイヤホンへと伝わり、それからマイクで発話される。後者ではミュージック・ビデオが歌によって、歌が自動音声認識によって、文字が声によって変換される。こうして人間と装置は補完し合い、入れ替えが可能であるかのように重なり合う。しかし、その過程で、いくつかの情報(言葉/意味/速度/調子/感情……)は、抜け落ちていくままに変換される他ない。ならば、二つのパフォーマンスはコミュニケーションの連続にある不和のボリュームを上げることによって、相互不理解(ディスコミュニケーション)を強調していることにもなろう。
ここにきて、ようやく両目を閉ざすという生体反応が選ばれている核心へとたどり着く。ある一定のrhythmの中で連続性を保持しようとする、心音や呼吸とは異なり、「瞬き(まばたき)」は意識的、反射的、心理的に、視覚的な世界をそのつど文字通り完全にシャットアウトしている。
すると「瞬き(まばたき)」の連続とは、切断の「瞬き(またたき)」であることがわかってくる。「瞬き(またたき)」と「瞬き(まばたき)」が同期され、「瞬き(まばたき)」と「瞬き(まばたき)」が連鎖し、そして「瞬き(またたき)」と「瞬き(またたき)」の変換によって、循環させられる。このように送り込まれていくすべての結び目において、そのつどごく微細な不和が生じていることになるのだ。
ゆえに、ここでのrhythmとは、本来的に流動しているものに対する、あらゆる「瞬きと瞬き」を変換する領域にこそ刻まれている。それは二つの要素間にある接続を断絶の不和へと反転させるという意味での、変換でもある。このねじれたrhythmは、瞼が閉じる暗闇と、照明が消灯する暗闇の間、すなわち二人の作家が感知し、他者へと表わされた二つのなだらかなクロスフェードの中心から生起してさえいる。心音や呼吸のようにゆるやかに循環する規則的なrhythmではなく、瞬目のように瞬間的に遮断する不規則的なrhythmによって、自己から他者へ/他者から自己へと同化/異化され続けるグラデーションの中にある、有機体/無機物を通過するシグナルをとらえ、そうしたサーキットにおけるあらゆる非対称性に対し一瞬のうちに拍を合わせるのだ。
相川と小沢は、音と沈黙、光と闇を反転させるのではなく、変換可能性と変換不可能性を反転させる。ならば、鑑賞者が迷い込んでいたのは、時空間的に連続する視界を遮断する瞼の開閉と空間を遮断する照明の点滅を循環させる一拍の中にある、無数の変換不可能な「瞬き」の間であったのだろう。この空間での体験、すなわちフラッシュのような暗闇によって深く呼び覚まされるのは、すべての接続を断絶へと反転させるbeat、そして変換不可能なままに今も刻み続けられているrhythmである。
(註1)この文章は会期中に変更された。「この点滅は、受付カウンターの中にいる監視員の瞼の開閉とリアルタイムに同期しているのです。その監視員が瞼を開いているあいだは蛍光灯が点灯し、瞼を閉じているあいだは蛍光灯が消灯します。」
(註2)この文章は会期中に変更された。「まばたきの周期は、生体的にも、心理的にも、その時の状況を反映しています。これはあなたの存在と互いに影響をし合いながら変動しているのです。このようにして見る/見られるがせめぎあったスリリングな『リズム』がここでは形成され続けているのです。」
●中尾拓哉(なかお・たくや)
美術評論家。1981年東京生まれ。多摩美術大学大学院美術研究科博士後期課程修了。博士(芸術)。2014年に論考「造形、その消失において――マルセル・デュシャンのチェスをたよりに」で『美術手帖』通巻1000号記念第15回芸術評論募集佳作入選。https://nakaotakuya.com/