1999年10月22日 於:武蔵野公会堂合同会議室
●出演者
田中信太郎(作家)
福住治夫(美術ジャーナリスト)
松本透(東京国立近代美術館)
●司会
藤枝晃雄(美術批評家)
[藤枝]…パネリストをご紹介いたします。向かって右側の方が田中信太郎さんです。ご存知かと思いますが昨年αMで、また、先週東京画廊で個展をされました。1950年代の後半から活躍されています。高校時代に二紀会に出品、受賞し、天才少年と言われ、その後ネオ・ダダのグループに入って活動されましたが、そのグループは分散してしまいました。
そのお隣りが福住治夫さんです。1966年に美術出版社に入社されて、『美術手帖』の編集長もなさって、現在は『あいだ』という雑誌を主宰されています。「美術と美術館のあいだを考える会」の雑誌です。これは美術館をチェックするというのが第一の目的で、出発の一つは富山県立近代美術館の、天皇の写真を用いた作品をめぐる事件です。それから高島平吾というペンネームで、トム・ウルフの『現代美術コテンパン』などの翻訳をなさっています。
私の横にいらっしゃるのが松本透さんです。東京国立近代美術館の学芸員で、これまで担当されたのは、「現代美術における写真」展、村岡三郎、カンディンスキー、「色とモノクローム」展などの展覧会を企画されています。美術館に入られたのが80年ですので、それ以前の時代については田中さんと福住さんがよくご存知かと思いますが、今日は少し客観的な方がいらしたほうがいいということでお招きいたしました。
美術界はバブルの時代を境に変質いたしまして、あらゆるものが堕落しました。日本美術界は社会にあまりにも追従するところがありまして、たとえば万博があると、アヴァンギャルドを名乗っていた人たちが万博に向かって突進したという時代がありました。そしてバブルが来ると、誰もがそれに浮かれておりました。その時、悪質な画商が現われ、美術家が堕落し、これは何度も言っているのですが、これらの画家と画商におだてられた美術館がのさばるということがありました。それからもう一つは、変なプロモーター、批評家でもない、画商でもない、得体の知れない輩が出てくる。それはいまでも続いておりますが、幸いにもバブルが終わって以前ほど力はありません。
バブルの時代に絵が流行ったのですが、その当時、ニューペインティングといわれる絵はほとんど廃れてしまって、それで現在はそうでない人たちが地道に絵を描いているという状況があります。しかし、新しいと思われているものは外国の真似をしていますので、インスタレーションだとか、そういうものはどんどん作られている。
今少し、現状を申し上げておきます。VOCA展というのがありますが、批評家や学芸員に作家を推薦させて、上で誰かが審査するというものです。また、東京ステーション・ギャラリーで「現代日本絵画の展望」展というのをやっておりまして、松本さんはその推薦者の一人です。これがまた責任の所在をはっきりさせない展覧会なんですね。カタログ中の座談会を読むと、「強い作品」があるとか「奥深い作品」があるとか、そういう形容詞を並べ立てている。たとえば酒井忠康は、その批判は拙書『現代美術の不満』の中でも書いておきましたけど、彼は根岸芳郎の仕事は素晴らしいというような、よく恥ずかしくもなくこんなことを今言えるなといった発言をしています。
状況はそういうことです。時代が違うと言ってしまえばそれまでですが、ネオ・ダダの頃は活気に溢れておりました。ある意味では時代性でもあったんですね。70年代は福住さんが活躍された時代でありまして、コンセプチュアル・アートとその周辺のものがどんどん出てきた頃です。80年代からバブルに入って、それで現在に至っています。田中さんが一番その間のことをご存知なので一言、自分のことでも結構ですからお話しください。
[田中]…今の紹介では、私が一番古いというか年をとったようなイメージですが、実際には、私が茨城県の高校を出て東京に出てきたのは1959年ですので、60年から読売アンデパンダンに出したと言っても、それはもう戦後と呼べる最後の時期に現代美術の現場を踏むことになったわけです。
読売アンデパンダンの第1回は1949年に行なわれました。その時私は9歳です。第15回、1963年に終わっているのですが、その時に私が23歳。ですから実際には1950年代の最後の最後をちらっと覗いただけで、岡本太郎さん花田清輝さんたちの「夜の会」の噂とか、瀧口修造さんが関わっている実験工房があるとか、それから神田のタケミヤ画廊が瀧口さんを中心に前衛的な仕事をしている人たちに発表の場を与えているとか、私が東京へ出て来た時にはすでに美術出版社が出していた『美術批評』という薄い、文字だけの評論の雑誌は廃刊になっていて、古本屋を漁って拾い読みしていたという感じでした。ですから実際に私が体を通して現場を知るのは、高校を出た1959年からなのです。その頃は、世界中で価値観が激動した時期で、日本自体も激しく燃えた時代です。アートもどんどん過激になっていきました。60年安保の国会デモで樺美智子さんが亡くなったのもその頃で、すべてのエネルギーが飽和し、頂点に達して行き場のない時代でした。私もそういう熱い空気にも触れましたが、しばらくして読売アンデパンダンも終わって、なにかス一っと憑き物が落ちたように足元を見つめる時期がやって来ました。それに、ネオ・ダダの仲間たちがみんなニューヨークに行ってしまったものですから、ポツンと一人取り残された感じが長く続きました。
その頃から、時代の空気がどんどん変わっていきました。日本が外国へ眼を向けるゆとりができたのか、交通手段も船から飛行機へとバトンタッチされ、まあまあリアルタイムで外国の動きが、次から次へと入りだしてきたんです。多分、日本橋の高島屋だったと思うのですが、「世界・今日の美術」展という展覧会をやっていまして、偶然通りがかって見ているんですね。世界中の新しい表現が100点以上も掛けてあって、どれも見たことのないものばかりでした。取り憑かれたように眺めて興奮しました。そこには今でも残像が起るような作品がいくつもあって、河原温さんの「浴室シリーズ」の作品がありました。「ああそうか、漫画みたいな絵でも美術になるんだ」と驚きました。僕には白いキャンヴァスの上に太い黒い線で描かれたその絵が漫画に見えたんです。そのうえ、その絵のフレームは曲がっているのですね。「この人は無神経だな、折れたまんまのキャンヴァス飾ってる」って真面目に思ったんですよね。しばらく経ってから、あれは意図的にああいうふうにしてあるんだと知って納得したり、びっくりしたり。いわゆる変形キャンヴァスっていうか、シェイプトキャンヴァスにその時初めて出会ったわけです。もちろん、本質的な意味でのシェイプトキャンヴアスではありませんが。後年の「デイト・ペインティング」もさることながら、初期から美術の外へと表現を広げていく、温さんの不安な狂気は強烈に覚えています。その展覧会を見たお陰で「ああそうか、これからはどんなものでも芸術になるんだ」と目を開かれる、本当にラッキーな出会いだったんですね。
もう一つ忘れられないのは、サム・フランシスの白い絵です。飛行機が雲の中に入ったような、グレーと白だけの画面で、なんにもないんですね。遠眼で見たら白いキャンヴァスが出してあるんじゃないかというぐらい、ただの白いところに、かすかにシミが惨み出ているような絵で、こんななんにもしてない絵が芸術になるんだと、これも大きなショックでした。今思い出してもこの二つの作品との出会いは、私を自由にしてくれました。
その頃は、次から次へと衝撃的な出会いが続きました。暗黒舞踏の土方巽さんの公演もその一つです。皇居のお堀の側に日本生命ホールがありまして、これもたまたま一人で行ったんですが、その時に背筋が凍るようなものすごい衝撃を受けて、椅子から立ち上がれなくなってしまいました。小柄で顎が張って、もう肋骨だけの、痩せて手も脚も鳥のガラみたいな土方さんが、腰まで届く長い髪の毛を振り乱して、暗い舞台の上でアヒルがひっくり返ったような踊りをやるわけですね。眼からうろこが落ちました。戦慄が体中を走り抜けました。こんな踊りがあるなんて。この踊りも芸術なんだと。40年前の20歳の私にとって、それは舞踏、ダンスの概念を吹き飛ばすものでした。
その後も、たとえば一柳慧さんと小野洋子さんが帰国して、草月ホールでコンサートをやりました。これ、コンサートと言いましても前衛の音楽家ですから半端じゃないんです。一番よく覚えているのは、舞台の中央に白い大きな袋がありまして、二人が服着て出てきて袋の中に入り、たぶんセックスしているかのように、気配だけしかわかりませんが、舞台の上で白い袋の形や陰影がどんどん変形していって、透明感の漂う美しいステージなんです。袋の擦れる音、中での二人の息づかい、袋の中を想像しながらの、気配としての表現と言うのかな、ああこれも音楽なのかと。実態を見せないで、気配だけでもって芸術になるというのは、驚いた一つですね。
それからナムジュン・パイクさんの、ピアノとノコギリと金槌で、粉々に壊していくコンサートも草月会館で行なわれました。曲の最後に、客席に向かって米をばら撒きました。「アイゴー、アイゴー」と言って、天に向かって米を撒くようでした。私はなぜか涙が止まらなくなってしまったのを思い出します。
1960年から現在まで40年間携わってきています。とりあえずは私の20歳代前半の思い出話になってしまいました。私と同じ年輩の人は懐かしがってくれるかもしれませんが、若い人たちにはちょっと言葉からは想像できない流動性のある時代で、次から次へと、本当にいろいろなことが起こりました。
8ミリの映画のフェスティバルも草月ホールを中心に活発でした。ケネス・アンガーとか、今は伝説になってしまっているような幻のフイルムも多く見ています。今思い出してもかなりフュージョンな時代でした。グループ音楽の人たちとの出会い、丹下研究所の建築家たち、ダンサー、カメラマン、アニメ作家、映像作家、『楢山節考』の深沢七郎さん、文学の人たち、漫画家、詩人--ジャンルを超えた交流が日常的に繰り広げられていました。みんなお金がなくて、時間だけがたっぷりある時代でした。
[藤枝]…どうもありがとうございました。50年代のことは、福住さんが出されている『あいだ』に「半世紀」という文章を池田龍雄さんが書かれています。ところで、60年代後半ぐらいからですと、高度成長に向かっているところでした。万博があるというので、みんな騒ぎ始めたんですね。それで潤った人もいますけど、バブルの時とは状況は違っておりました。アンフォルメル、次いでアメリカ美術の影響が強くなったのですが、日本の芸術が変わりつつあるということで、『美術手帖』などはそういうものの紹介をやっておりましたし、批評のページも多かったんですね。今はもうすっかり変わってしまいましたが。それへの批判もありましたが、これが80年代ぐらいまでは続きました。
そういう雑誌を作った中の一人が福住さんであったわけです。ここでことさら歴史を回顧する必要はないんですが、その辺から話をしていただき、現状についてもお聞かせいただければと思います。
[福住]…福住と申します。写真家の安斎重男氏が僕のことを誰かに「現代美術の化石」だと紹介してくれたことがあって、たいへん傷ついて、いまだに忘れないんですが、僕が『美術手帖』の編集に関わっていたのは1960年代の後半から70年代の始め頃まででしたから、考えてみればもう30年近く前になりますので、まあ「化石」と言われてもしかたがないかもしれないですね。
で、個人的なことを軸にしてしか話すことができませんから、今日はそういうことに限定したいのですけれど、1966年に美術出版社に入ったんですが、モグリみたいなもので、小・中学校時代に絵が好きだったというだけで、もともと美術も美術史も勉強したわけではないし、だいたい美術出版社がどんな雑誌を出しているのかも知らないで入ってしまった。年齢的には先ほど話に出た読売アンデパンダンや「世界・今日の美術」展なども当然見ていていいはずなんですが、東京の片隅でうごめいていた「現代美術」といわれるもう一つの世界については何も知らず、当時は都電に乗って錦糸町の場末の映画館で東映の時代劇ばかり見ていました。
そういうわけで67年に『美術手帖』の配属になって、初めて「現代美術」なるものに接したわけですが、新宿のデパートで篠原有司男が若い女性を裸にして、絵具を塗りたくってたのが、一番最初の印象です。コーフンしましたけど、まあ、ネオ・ダダの俗化した、堕落した形態ですね。さっき田中さんもおっしゃったように、いわゆる反芸術の華々しい動きは60年代の前半で終わっています。
やはり田中さんが挙げられたケネス・アンガーなどの上映は、草月アート・センターなどで盛んに行なわれていましたが、そういう熱気は、ついに体験しませんでした。それでも僕がこの世界に入った頃は、唐十部の状況劇場や寺山修司の天井桟敷とか、あるいはインディペンデント・フイルムの活動も活発にやっていました。ジャンルの融合やメディア・ミックスというのは、概念や形式としてはまだ実験段階で、むしろ人的交流の側面のほうが強かったと思いますが、ともかく僕にとってはジャンルの諸国行脚みたいな感じでとても刺激的で面白かった。そういう動きが大団円として吸収されていったのが、70年の万博でした。万博に関わったのは一部の花形作家だけですが、一方社会には、ささやかだったにしても、反万博の動きもあったりして、みんなこの時に疲れ果てたと言っていいでしょうね。学生の反乱も忘れるわけにはいかないです。
そんなショックで参ってしまった時に入ってきたのが、コンセプチュアル・アートです。今や神話的な、中原祐介さんが企画した「人間と物質」展も、広い意味では、この流れに含めていいと思います。僕はこの「シラケの時代」と言われていた最悪の時期に、1971年に編集長になりました。あの頃は訳のわからない文章ばかり載せて、「お前が『美術手帖』の売り上げを落とした張本人だ」というような言われ方をすることもありますが、確かにそれは否定できないけれども、なにしろカラーで載せる作品がないんだからしょうがない。しかも当時、フランスの批評家のアラン・ジュフロアが「芸術を廃棄せよ」などと勇ましいことをぶちあげたものだから、若い連中はこれにころりと参ってしまって、もはや作品を作っても意味がないんだ、などと言い出した。論理というより、心情レヴェルでの受け取られ方だったと思いますけれどね。
僕もそういう時代の空気をかなり濃厚に吸って、上野毛の多摩美術大学の校門のところで学生と議論になったりしたこともあった。そんな時どうしたかというと、過去を振り向いた。ゴールデン60’Sがやたらに輝いて見えるわけです。それで、ハイレッド・センターなど、60年代の日本の動きを振り返りながらまとめる作業を主にやりました。これは先ほども言いましたように、個人的にも美術に遅れてきた青年であったために、自分の知らない前の時代に、一種の劣等感みたいなものを感じてしまうんですよね。田中さんなどと年もそんなに違わないはずなのに、もうすごくエラい人のように見える。そんな劣等感みたいなものを克服しようとする気があったのかもしれません。もっとも、上の世代の作家たちには、そういう企画を嫌がる人もいました。近い過去を歴史化してしまうとは何事か、というわけですね。まだまだこれから活躍するつもりなのに、一丁上がりにするのか、とね。
そういう流れが1972年の4、5月号でしたか、現代美術の年表づくりに繋がっていったのです。これは雑誌レヴェルでは、どだい暴挙と言うほかない仕事だったんですが、ともかく2回に分けてやった。
その後、赤瀬川原平さんの第二次千円札事件のようなことや、いろいろとありまして会社を辞めました。
[藤枝]…今、年表の話が出ましたが……。
[福住]…赤塚行雄さんが60年代の個展などのデータを克明にとっておられたんですね。それを第一次資料として膨らませていこうとしたんですけれど、結局、一から始めるようなかたちになりました。これはなにか非常に変則的な扱いになってまして、前史と後史という感じで分けていて、前史は1930年代からやっぱり60年代ぐらいまで入っていたかな。後史のほうは言われるところの前衛史みたいな感じで、だいたい戦後を扱っています。
[藤枝]…そういうのが『美術手帖』に出ておりました。ところで、60年代のスターの一人は亡くなった高松次郎ですが、彼は半ば神格化されていまして、東京画廊で「トリックス&ヴィジョン」という展覧会をやりました。アメリカ人三流作家のジェフリー・へンドリックスというのがまた、同時期ぐらいに展覧会をやって、これをみんなが持ち上げた。それでこぞって似たような展覧会をやって、関根伸夫だって「位相」などと、ちょっと数学的なトリックで、非常に悪い色でしたけどもそういう作品が出てくる。
そこへ突然、ミシェル・フーコーだとかそういう人たちが出てきて、李禹煥がそれを受けて、西洋人の西洋批判を以て西洋批判をやり始めた。アメリカ美術の影響が非常に強かったところへ日本というか東洋を取り入れたこともあって、「もの派」が台頭してきたのですね。ところがもの派の作品は、イタリアのアルテ・ポーヴェラの影響なしには考えられません。ここでもの派の批判などしている場合ではないのですけども、アレクサンドラ・モンローが、日本で開かれた前衛展について、もの派とミニマル・アートを関連づけながらオリジナルだというようなことを肯いておりますが、モンローというのは自分の都合のいいように、展覧会のカタログをでっち上げておりますので、これはまた改めて文字で批判したいと思います。
もの派の人たちの中で、亡くなった人の批判をするのもなんですが、吉田克朗も3、4点最初に、訳がわからずに作った作品がよくて、あとは作れないので版画になった。ちょうど版画の流行がありまして、これはアンディ・ウォーホルなどのシルクスクリーンの影響が日本に入ってきたことによります。それで版画、版画と言い出して、石を取り上げるようにパチリと写真を撮って、また日本の風景じゃまずいんで、西洋の風景を写真に撮ってそれを版画にするということです。そういう時代でありました。ですから、もの派の人たちが版画に移るのは必然的なことであったわけです。
さて、松本さん、お待たせいたしました。
[松本]…私が美術館に入ったのは、1980年ですけれども、それ以前の6年ほどは東京にいませんでしたし、実際には70年代後半、あるいは前半も含めて同時代体験はしていない。多分、歴史をもう一度振り返る必要があるのだろうと思いますが、なにしろ近い過去だから本当に整理がしにくいし、異論がきっとあるでしょう。ただ、大きな時代の切れ目が70年代の後半から80年代の初めにあったんではないかという気がします。と言うことは、それ以降20年近く、きっとあれほど大きい切れ目はなかったのではないかという気がする。
それを掘り下げ始めると時間がなくなりますが、個人的なことに絡めて一つ言うと、要するに70年代の後半というのは日本の美術雑誌だと「平面」という言葉、今から考えるとこの「平面」という言葉は、ごく簡略化していくと「絵画-イリュージョン=平面」ぐらいの意味だと思いますが、とにかくそれが2、3年にわたって論争というか議論の核になった時代です。それ以降、もちろん各論としていいエッセイがあったり論文があったり、わりと盛要な論争もあったと思いますが、日本美術界で核となるような議論というのがほとんど成立しないまま20年近くきてしまった。これが70年代後半辺りから80年代初めにかけてを時代の切れ目と言った一つの理由です。
個人的なことですが、70年代の半ば、学生だった頃に『美術手帖』も含めて美術雑誌のバックナンバーを僕も揃えてましたし、そういうことを普通にみんなやっていた時代です。『美術手帖』で言うと背表紙が白かった頃、60年代の未から70年代の半ばぐらいまではだいたい本棚に揃っていた。しかも同時代に買って揃えたんじゃなくて、あとから古本屋で買ったのです。古本屋でわざわざ集めるほど情熱的に、その月々に出ている美術雑誌を読んでいたかというと、ちょっと怪しいところがある。
これはどういうことかと言うと、70年代後半にまだ若かった大学生が、もうその時点で、もしや決定的な時代が終わってしまったんじゃないかという感覚があるものだから、過去を一所懸命集めたんでしょう。これは今の若い人が70年代のレコードを凄まじくマニアックに集めるのと似た現象なんです。
僕が美術館に就職した1980年頃は、欧米ではもう少し早く話題になっていたとか、そういう時差の問題はありますが、ニューペインティングと呼ばれているものが話題の中心にのぼった時代です。けれども日本の場合にはニューペインターというものはいなかった。ニューペインティング的なものを導入した作家は随分いるのだけども、ニューペインターとして起動した作家はいなかったし、そうなるとそこにエールを送ろうにも弾を撃とうにも目標が定まらないのです。これなども80年代初頭辺りで論争が起こりにくくなった地盤の一つではないかと思います。
それから、たとえば基本的に美術雑誌が教養主義化していく。70年代の初頭には東京でも、とりわけ現代美術専門の美術館などは2、3しかなかったのです。ところが70年代半ばぐらいからどんどん美術館ができ始める。さして質を問わなければ、現物が見られるようになった。とすれば、実物がどこで見られるかという情報、それから知識、つまり展覧会を補うものといった方向にどうしても動いていかざるをえない。それ以前は本当に、美術雑誌といっても理論誌と呼べばいいのか、批評誌と呼べばいいのか、紙面は白と黒で活字の量が圧倒的です。現物を見られっこないというんで、本に載っている小さなコマ写真を見て、何を表現しているのか推測するんです。推測するのを助ける補助の道具として活字を読むんです。
これはもう全然、情報なんかではない。そんな手掛かりを通じて、大げさに言えば認識なのか、推測なのか、そういう活動をするわけです。だから美術館が建てられてきて、それと連動して批評誌、あるいは理論誌がだんだん情報誌化し、ヴィジュアル面が強くなっていく。そして論争の核がない。それからあの不思議なニューペインティング現象が、70年代後半から80年代初めにかけて起こった。提示の仕方の変化とか、風潮の変化もあるし、美術館、画廊以外にもっと別の形態の展示スペースもできてきた。美術雑誌以外にいろいろな活字メディア、電波メディアができるとか、その辺りは日進月歩だし、あっという間に80年代が過ぎて90年代になり、美術内部のムーヴメントとか、美術の外と内との関わりにおける大きな変化が、ここ20年間ないんじゃないかというのが僕の回顧です。
[田中]…クオリティに対する眼が、日本の現代美術の中で培われてこなかったのね。松本さんの言ったように、われわれが見てきたものは、単なる図版なんです。ぼくなんかでも最初にヨーロッパに行った時に、まさかマチスの赤があんなにくすんだ色だなんて夢にも思っていなかったです。日本にいて見る印刷図版では、当時はただの真っ赤でした。ポスターのような奥行きのない平らな赤い色を想像していたのに、実際には、木炭の消した跡は残っているし、グリーンも赤も明度の低い渋い色で、はっとしたのかがっかりしたのか……。クレーの作品もそうでした。日本の図版で見ると、ほとんどがデザイン的なきれいごと程度に思っていたんですが、実際に美術館で数多くの作品を見ていくと、一つひとつの作品は小さいけれど、とても丹念にイメージされ、描かれていている。印刷図版では到底わからないクオリティ、リアリティを持っていて感動するわけです。日本では、先ほども言ったように、クオリティに対する目が欠落したまま成長するので、その分、表現は図式的になってしまう。表面を撫でるだけになってしまう。移行が安易にできるのです。一番重要な「誰もやっていないこと」が欠落している。むしろどこかで見たようなものを、みんなも安心して褒める。だから日本には、ヨーロッパに行ったらほとんど相手にされない、ヨーゼフ・ボイスの亜流のような大家が3人も4人いるんです。
日本はいまだに島国根性から抜け出していない。今でも、日本の中でも、ますますいわゆるセクト化が進んでいて、仲間内での共通テーマでほっとして楽しくやっている。本当はそんな狭さを悲しむべきじゃないかと思うんですよ。
[藤枝]…松本さんにちょっといまのことと関連してお訊きしたいのですが、現在のインスタレーションなどというのはどういうことになっているのか、どういうふうに捉えたらよろしいでしょう。田中さんはインスタレーションのはしりと言えばはしりですけど、今のインスタレーションは違いますね。また外国では政治的なものが多いですが、これも流行でありますし、政治的なものをやれば格好いいとみな思っています。現在のインスタレーションは、画廊が狭いし、なかなかそれだというようなはっきりした形のものがありませんけども、どんなふうになっているのでしょうか。
[松本]…インスタレーションですか。それは若い作家を念頭においてですか?
[藤枝]…そうです。
[松本]…本当にちょっと理解しがたいほど多くなっていますね。以前、アメリカで訊いてみたことがあるんですよ。向こうの美術大学とか、たまたま見たPS1というノンプロフィットの施設でも、やはりグループ・ショーがあると、要するに床をコードが走っている形式、光る、動く、あるいは音が出る、そういうのが多い。インスタレーション形式の作品の内容に対しての批判ではありませんが、インスタレーションの作家は間違いなく増えてきた。しかし、インスタレーションの作家が増えた分、画家が減った、彫刻家が減ったというのではないと思う。そう言ったら、そうだ、そうだと賛同を受けたことがあります。絵は絵で、彫刻も彫刻として存在し、それらがなぜかある時からばたっと恐竜が滅びるように滅びるわけがないのです。しかし現代の現実への対応となった時には、やはり絵では表現しにくい部分とか、彫刻では表現しにくい部分が出てきてしまうのでしょう。それへの対応として、いわば表現形式が増えた。増えただけでは済まないはずで、絵からインスタレーションへ、それからインスタレーションの、しかも動いたり、光ったり、音の出るものが、ある時間を経てもう一度絵具に取り込まれるとか、石膏に取り込まれる、ブロンズに取り込まれるということがぼくはあり得ると思っているのですが、とりあえず今はほぼ並行してインスタレーションという形式が成立しているのだと思います。それからまず間違いないのは、これはもう日本だけの現象ではないですね。ヨーロッパでもアメリカでもそういう状況があって、しかも彼らの作品を取り上げるメディアの間口が広がっている。
つまり、時代の新しい技術というものは、美術界か批評界かは別にして、言葉や資金や物資が提供されてサポートされる。そういうかたちでインスタレーションが表面的にすごく伸びてきた、そんなふうに見えます。
[藤枝]…インスタレーションでもなんでも、これがいいとか、美術の現状がこういうものだ、ということを書く人がいなくなりましたね。福住さん?
[福住]…はい、おっしゃるとおりです。作家も批評家もオタク化した、と言ったら怒られるかもしれないけれど、情報としての美術の状況はあっても、自分が生身で関わる状況はなくなった。いい意味での美術共同体のようなものが成立しなくなったように思います。一見華やかに見えながら、奇妙な閉塞感に覆われている。若い人たちはそんなに議論もしないのかな。僕らの時代は、自分も含めて、作家も批評家も侃々諤々やっていた。
[藤枝]…若い批評家たち、批評家自体もあまり多くいませんけども、ここがいいからといってそれを強力に推すような人もいなくなって、何を再いてるか訳のわからないことをやっている。作家も作家で、絵が流行ってきたら絵を描き出して「私は画家だった」と言う者がいる。それで絵がちょっと下火になってきたら写真を使った古い作品をまた出すような人もいます。支離滅裂です。
[福住]…また体験的に言いますと、僕は単なる目撃者ですが、先ほど申しました一部のシラケの時代を経て、みんな制作に復帰してゆく。その頃から藤枝さんがフォーマリズム的な批評家としてもっとも旺盛な活動を展開される。それまでの針生、東野、中原という当時の御三家の批評とまったく異なり、作品の質を問う方法論と鋭利な文体にはとても苦労しましたよ(笑)。
みな、議論はしても決定的な立場は取れない。もの派の登場の時もよく議論しました。そのきっかけになった『美術手帖』の「発言する新人たち」という特集は、僕が編集長をやる前だったけれど、訳もわからず担当させられました。「ものの開く新しい世界」なんて自分で前口上を書いておきながら、あれはどう見たってガラスの上に石を置いただけにしか見えない、とか言って。そんなわけで再び絵画返りがなされ、「平面」なんて言うようになったりしますが、結局何が残されたかというと、はなはだ心許ないですね。言説と制作の乖離を厳しく検証し直さなければならないです。
振り返ってみると、美術の流行がよく見えます。もの派の時にはもの派的なものが街の画廊に溢れ、ニューペインティングだというと、あっちにもこっちにもニューペインティングばかり。女の子の部屋をそのまま画廊の中に持ち込んできたようなものが流行った時は、大学教授の批評家をつかまえて「一体何を教えているんですか」となじったりからかったりした覚えがあります。教えるほうがおかしいからこうなるんだと。
優しい眼で見ると、結局、作家の卵たちが直に接するのは、その時代のトレンドであり、それを超える個性を持つのは難しいし、僕自身だって、かなりよく見て回っているほうだと思いますけれど、まがりなりにもフォローできる時間的スパンと言えば、たかだか20年ぐらいなものですよ。批評家だって同じようなものですよ。
近年、批評の衰弱が言われますが、これはジャーナリズム--と言えば、一応マスとしては『美術手帖』ぐらいしかないわけですが、その物理的なフォーマットという問題が意外とばかにできない要因としてあると思うんですよ。だって、今のように文字が細かくデザイナーのお遊びのおかげでわざと読むことを阻害するような紙面では、書き手もきちんとしたことを書く意欲を失ってしまうんじゃないですか?最近では、カラーのオフセットで、椹木野衣の『日本・現代・美術』の連載だけは、なぜか別扱いになっていましたけれども。こんな形だと、細切れの情報雑誌たらざるを得ない。形式が内容を規制してしまうことが確実にあると思います。
[藤枝]…最近は、展覧会依存症みたいなもんですね。セザンヌの展覧会やるとセザンヌ特集をやるし。昔もそうでしたっけ?
[福住]…違いましたね。第一、セゾン美術館もできていなかったし、依存できるような展覧会もそんなにはなかった。
そういえば、この前セゾン美術館の残党が作った新しい組織、セゾン・アート・プログラムというところが、批評家による批評家の連続講座を行ないました。取り上げられた批評家、瀧口修造、宮川淳、そして藤枝さん。藤枝さんを論じたのは松浦寿夫さんでしたが、彼が「三人の中で唯一生きている藤枝さんが、ちょうどシンポジウムを開くので、生の声を聞いて下さい」と今日の催しを紹介されたんですよ。だから今日の観客の皆さんの7割から8割は、それを聞いていらっしゃったのかもしれない。是非、藤枝さんにもっと語っていただきたいものです。
[藤枝]…ぼくは司会ですから。
[福住]…ついでに言っておくと、松浦さんがその講座の案内パンフに書いておられたことで僕の印象に残ったのは、わが国の美術の80年代における非常に顕著な特徴は、いわゆる職能的な批評が後退、後景化して、美術館の学芸員とかジャーナリストが前景化したということです。僕もほぼそのとおりだと思う。まあ、僕もジャーナリストの端くれですけれども、ほとんど注文がないから自称みたいなものです。ジャーナリストはともかくとして、美術館の学芸員が大きくせり出してきたのは事実ですね。つまり、美術館が美術の基盤構造としてますます強固になってきたということだと思うんです。それと反比例するように、不況の影響があるとはいえ、従来の画廊の勢いがなくなってきた。
これを僕なりに言い直せば、美術の官僚化ということになります。学芸員の皆さんは、自分のことを研究者だと言いたがるけれど、公的システムの上に乗っかって、作家や作品を選ぶという権力行為をしている人は、取りあえず官僚です。隣に座っている松本さんもれっきとした官僚(笑)。そういう官僚が、美術館においてはもとより、たとえば冒頭に出た東京ステーション・ギャラリーにおける展覧会などに関わったりして、日本の美術界をあらゆる面で牛耳るようになってきた。しかも、多くの場合、そこでは合議制のような顔の見えない日本的なやり方が行なわれるから、そういう選抜行為の批判がなかなかやりにくい。しかも、批評家たちがみんなそういう官僚的システムの上の美術機構や行事などに組み込まれていって、自分たちの批評的な営みをすり替えているように見えます。その意味で、批評は二重に堕落していると言っていい。批評家はよく、書く場がないなんてこぼすんですけれども、言いたいことがあれば自分で場を作ればいいんです。それが原点だ。
[藤枝]…一部の官僚たちが出てきて、わからないのに上前をはねているというところがありますね。東京ステーション・ギャラリーの展覧会のことで言えば、誰がどの作家を選んだかは明記されずに、審査は別の3、4人がやって、彼らが座談会でくだらないことをいろいろと言っている。そうした一種の権力主義がいよいよ強くなる。
松本さんはいかがですか。美術館の場合、少し違いますけれども。
[松本]…批評家は、別に展示スペースを持っているわけじゃないし、批評家兼大コレクターであれば別ですけども、作品を収蔵するわけでもない。ところが美術館が現代美術を取り上げ、個展やグループ展をしてカタログを作れば、そこに批評文を書くだけじゃなく空間がある。場合によってはものを買う。これは70年代以前にはあまりなかった新種のパワーだと思うのですね。
ただ美術館の中の人間は、美術館は制度だと言われて、その制度を望まない、それを嫌だと思っていても、学芸員個人がそれをどうこうできるものではないんですよ。つまり学芸員によってはそういうパワーを持っているということで、それを権力として行使することは、やろうと思えばできるでしょうが、そんな気がまったくなくても、美術館に勤めていて展覧会をやると、付いてまわる付加価値を個人で切り崩すのはちょっと無理な話です。
そうなってくるとやっぱり普通の画廊と、それからたとえばアンデパンダンの会場であったような70年代以前の美術館、それ以外に公立美術館というかたちで現代美術をも取り上げる施設ができたこと自体は必要なことで、ないほうがおかしかった。まだ足りないというぐらいだと思うんです。その制度の良さだってあって、それにつねに付いてまわる付加価値的な必要悪、それにどう対処するかという問題になると思います。
[藤枝]…東京国立近代美術館は、改装後は現代美術をどんどんやられるのですか。
[松本]…あの、近代美術館は現代美術館ではありませんから、現代だけというわけには……。
[藤枝]…従来よりはもっと数多くやることになりますか。
[松本]…個人的には、そうありたいですね。
[藤枝]…展覧会に対する反応というのは極めて少ないですね。つまり新聞やジャーナリズムというのはそれを徹底的に検討したり、批判するということもないし、かつての『美術手帖』にはそういったものがありましたが……。
[福住]…そういうことはありましたね。
[藤枝]…大方の新聞の批評はもう滅茶苦茶ですから。書いた以上はほとんどすべてを褒める。
[福住]…普通、新聞が取り上げるということ自体が、すでにその対象を文学的に肯定するフレームになっていますからね。批判は出にくい。しかも新聞記者は目新しいものを追いかけないといけないという観念に取り憑かれていますから、何かビッグなイベントが立ち上げられれば、それだけで評価して、無批判的に評価するという構造になる。何かやることはいいことだ、ビッグなことはいいことだとする発想は、企業や行政と同じです。
その裏には、あえてやらないほうがいいこと、マイナスの価値もあるのだと忘れないでもらいたい。たとえばトリエンナーレなど、いまさらやらなくてもいいのではないかという考え方ですね。
[藤枝]…政治記事とはまったく違いますね。生活と密着しているせいか、政治に対しては批判しますよね。だけど新聞は美術に対して批判はほとんどしませんね。家庭欄の延長です。
[福住]…新聞の美術欄も、その気になって各紙を見ていくと、記者の性格や取り上げる契機など、裏も読めるようになって面白いですよ。記者の皆さんは評論家になりたいのかどうか知りませんが、批評的なことを書くよりも、リサーチや解説を徹底してもらいたいですね。画廊や展覧会を回っただけで、一本記事にしてしまうなんていうのは、新聞記者の名前が泣く。
[藤枝]…新聞の批判は去年もやりましたが、いまは雑誌もそうなっていますね、『美術手帖』なども。
[福住]…そういうふうに、美術館もジャーナリズムも、いわばグルになっているわけですからなかなか難しいけれども、美術館の展覧会批評をもっと起こさなければならない。とんでもない心得違いの展覧会が平然と行なわれているのに、そのフレームを見ようとしないから、多少の無い物ねだりを言ったとしても、結局、提灯記事にしかならない。
それからもうーつ、美術館自体が美術とは何かを具体的に示すフレームであるわけですが、美術館がその辺を意識しないで、ジャンルの拡張をやっていくと、議論抜きにある種のポストモダン的状況をなし崩しに既成事実化することになる。漫画とか荒木経惟展とかね。美術館は、なぜ漫画なのか、なぜ写真なのか、しかも荒木なのか、つねに考えられなければならないと思います。
[藤枝]…荒木とか写真とかが取り上げられるというのは、だいたい外国で認められたものですね。安心してそれをやる。誰かが日本へやってきて森村泰昌がいいと言うと、大々的に認める。しかし外国でも、キュレーターなんかまともな人間はほとんどいません。小池隆英さんのαM展のカタログに書きましたが、自己認識する力が外国になくなってきて、それがよりはっきりしつつあると思うんです。
それともう一つは、今おっしゃった発表の場の関係ですね。日本は作品が売れないというのがある意味ではいい作用をしてるところもありますが。それで田中さん、作家の発表の場という問題がありまして、かつては貸画廊が非常に多かったのですけれども。
[田中]…発表の場というのは、日本ではそれ程変化があるとは思えません。画廊は以前とさほど変わってはいない。しかし、美術館の数、展示スペースの拡大は、30年前には到底考えられない規模になりました。物理的にも意識的にも充足されない多くの空間がロを開けてもがいています。一つ気になるのは、もう10年ぐらい前からでしょうか、いわゆる美術展というものが、作家の手からキュレーターという作らない人間のほうに委ねられてきている。巨大な展示スペースでは当然のことですが、企画者のイメージで多くの作家がピックアップされで、企画者のイメージに合った作品を配置し、そこではややもすると、作家と作品とは匿名性のもとに変質させられてしまうのではないのか。かつては、良いか悪いかは別としていわゆる作風が自己完結している作家、ある程度その作家がどういう表現をしてきていて、それ自身で高度の伝達能力を持っている作品の中から、国際展なり、美術館での大規模な展覧会が行なわれていた。けれどもある時期から、一番顕著だったのはカッセルの「ドクメンタ」。ヤン・フートがキュレーターの時ですが、これはもう作家の表現を見るというより、作家や作品がキュレーターのイメージの中の部分品になってきてしまってるわけですね。これはもちろん肯定的に見ても一向に構わないのですが、古い意識の作家としては面白くない。その時のドクメンタには150人以上の作家が出ていて、そうすると、半数以上の作品がどの作家のものか、そしてどこにあるのかわからない。キュレーターがどういうことを伝達しようとしてるかということにすべてが集約されていってしまって、作家本来の機能が変質しているのじゃないか。それが今でもある部分でずっと続いていて、いわゆる部分品となりうるような、解釈の多様性を持っていて、切り口の断面が完結してないほうがむしろ接点となる、そんな状況が気になるのです。それを進歩と見るのか後退と見るのかは、考え方によって違うのは当然ですが、私なんかはやはり作家同士が対立して喧嘩し合うような時代に出ていますので、自分の作品が違った解釈で、ある共有空間に素直に納まってしまうのは考えられません。批評家も展覧会そのものも、作家も変容を迫られている。
このことに関して、キュレーターである松本さんどうですか。
[松本]…日本では、きれいなグループ・ショーというものを、ぼくは恐らく見たことがないです。ぼくはこれはとりわけアメリカ以上にヨーロッパでは、もちろん個々の作品が生きない形であれば、いかに全体のコンセプトの提示が鮮やかでも成功した展覧会とは認められないでしょうが、キュレーターのコンセプトと競い合っている時代であるというのは間違いないと思うんです。そういう時代だということをいち早く察知した作家がいると思うんですね。キュレーターが何かうまい枠の中にはめ込もうとしても、どうやってもはめ込みにくいタイプの作品を作っていたり、そういうことを受け入れないタイプの作家ももちろんいる。ところが一方、キュレーターが表に出てきてしまうという状況を素早くつかみ、キュレーターが料理しやすい仕方の作品が作られる、いわばその状況を利用し得た作家もだいぶいると思います。日本人も含めて、名前は挙げませんけど、どうにでも料理できるし、料理の仕方によってはきれいに見える作家と言えば大体おわかりになると思います。
[藤枝]…ドクメンタも、いまは実質的なテーマがないようなものです。これが良かった、あれが悪かったなんていうこともなくなってしまいまして、社交場ですね。
[田中]…作家の選定も、世界中、同じような常連の作家が重複しているということもありますが、ジェンダーというと、日本ではもちろん世界中ジェンダー流行り。写真といえば、写真流行り。癒しと言えば癒しの類型がニョキニョキ出てくる。そしてすぐ何事もなかったように別の興味に移行していく。あまりにも風化が早いんじゃないかと思います。
[藤枝]…そうですね。展覧会については良いとか悪いとか言わないといけないですね。それを言わないものだからのっぺらぼうで同じように思われてしまいますが、訳のわからないレポートのようなカタログの文章が書かれ、見るほうもそれで終わってしまうので、何もはっきりしないということになる。展覧会の質は全然問題にされない。
福住さんどうですか、そういう状況をご覧になって。
[福住]…おっしゃるとおりですね。さっきの話とも重なると思いますが、キュレートすることも言ってみれば一種の編集作業ですから、あらかじめ類型化されることは免れない。展覧会のキュレートに限らず、社会のあらゆる側面で見られる、ある意味でのパターンの暴力を突き抜けて質を顕わすのは、本質的な問題ではあるけれど、今はとりわけ難しくなっていると思います。村上隆などのいわゆるシミュレーション派は、そういうところを逆手に取っているというのか、乗っかっちゃってますね。
[藤枝]…現在のメディアがああいうものをより好むんですね。それについてのきちんとした批評は何もない。反対も書かせません。森山大道は森村よりははるかにましですが、ニューヨークのジャパン・ソサエティでいま個展をやってますよね。先に言いましたが、これまた日本を食いものにするモンローがやってるのです。この個展については、アメリカのある雑誌に「高度成長の時代にこういう暗い日本が出てくるのは、日本人はペシミストだというのではないか」という批評がありましたが、高度成長時代は、日本はやはり貧しかったですから暗い写真が出てくるのは別に不思議でも何でもない。そんな日本の事情も知らないで、すぐに観念的に社会と結びつけたりしないでもらいたいです。だいたいそういう取り上げられ方ですが、それが日本へ逆輸入されてくる。
写真も考えてみれば大半はかつての版画ブームに近いところがあって、ちょいと写真を撮れば作品になる。ちゃんとした写真家が浮かばれません。絵画論争があっても、どこかで尻切れトンボでありまして、絵を描きたい人は絵を描けばいいし、その人に合ったメディアとしてあればいいんです。ところが絵が描けない、わからないからインスタレーションに向かう、海外で絵が終わってインスタレーションが制作されているから後者に向かう。そういう変化の図式が続いています。
[田中]…藤枝さんに訊きたいのですが、平面というのは眼前に対峙し、身体を通した自分の世界ですから、矩形の中に、自分の宇宙を主観的に完結できます。インスタレーションの作家や、空間を扱う立体の作家は、キュレーターの台頭や空間の条件の変質で、ますます自分自身を見出せなくなっているのではないのか。そんな中である種の客観化を迫られている立体よりも、インスタレーションよりも、自分の世界にこもることができる平面に、有能な作家の意識が向かうような気がするのですが。
[藤枝]…インスタレーションやった人がですか?
[田中]…今若い人の中に平面をやる特異な作家が出てきていますね。一つの自己防御というか、自分だけの完結した世界、「私絵画」を望んでる人たちのことです。当たり前のことですが。
[藤枝]…今までだったら団体展ぐらいに出していた古い人がちょっと新しいことをやり始めているというところがあって、しかしその枠は越えられない。昔だったら反現代美術的な団体展の作家がいっぱいいたわけですね。
[田中]…今でもいますよ。
[藤枝]…もちろん今は別の点で多いかもしれませんがね。
[田中]…具象・抽象は問わないのですが、私小説のような平面を描いている、痴的でオタク的な作家のことです。ちょっと具体的でないね。これ、単なる私の願望かな。
[藤枝]…その場合も、やはりいろいろと問題はありますので、それについては機会あるごとに書いております。もう分割はやめろと、繰り返しはやめろとかですね。それは写真を用いてシルクスクリーンにする版画とあまり変わらない。カメラがとにかくやってくれますからね。下手くそでもね。
[田中]…そこにいったら困ったもんです。
[藤枝]…写ってしまいますから。今はカメラの性能がいいですから、適当に写真による作品になってしまうんですね。だから絵とか彫刻をやるというのは、やっぱりたいへんです。しかし、写真でしかできないものは厳然と存在します。
[田中]…確かに外国の美術館は、ずいぶん昔から写真のコレクションが多いですね。MoMAにもとてもたくさんありますね。でっかいレンズで、でっかい写真機でもって、銀版のフィルムを使って、これでバシャと撮っちゃうと、すごく驚いたんですが、写真の足元にある石が鮮明に写っていて、遠くの山の上を飛んでいる鳥までピシッと写ってるんです。そんなフォーカスの深い両方を完壁に写すのは今では無理ですね。写真のある良質な部分はずいぶん退化しているみたいです。
[藤枝]…絵の真似をして、大きくするでしょう。これがまたひどいですよね。写真を大きくするのと、大きい絵を描くのでは全然違いますから。
[田中]…それと、同じものの繰り返しね。
[藤枝]…いろんなメディアがあちこち出てますけど、近代美術館は、今後そういうものはフォローするのでしょうか。
[松本]…写真はもちろん専門スタッフがいますからね。さっきインスタレーションのところでちょっと言いましたけど、ぼく自身はビデオ、それからコンピュータ・アートも含めて、本当はそっちを勉強する時間があるくらいだったら絵や彫刻をやっていたい。やっぱり絵は絵であり、彫刻は彫刻、もうそれらにしかできない表現分野がある。本当を言うとメディア系の現代美術ばかりは、今ひとつ手が届きにくい。でも、今まで美術を見てきた眼がそのまま通じるのかどうかは知りませんが、いずれクオリティを問うことから始めて、まずは展覧会なりをやらないわけにはいかない感じはします。
[藤枝]…ビデオアートも、いいものはほとんどないと言っていい。ただ美術館にないとまずいですよね。ある筋道というか、形をつけておかないとね。ICCですか、あそこだけでやっているようではちょっとおかしい。
[松本]…ことさらにスポットライトを当てて、絵や彫刻をやってらっしゃる方をムッとさせようという気はさらさらなくて、普通に淡々と取り上げて、つまり絵や彫刻のコレクションと一緒に、いいものがあればそういった部屋があって当然だと思います。
[藤枝]…福住さんにちょっとお訊きしたいのですが、この『あいだ』という雑誌をお出しになってて成果がありましたか。
[福住]…どういう意味の成果でしょうか。
[藤枝]…美術館を批判して、それで少しは正されたとか、意識が変わるとか。なかなか難しいと思いますが。
[福住]…ちょっと宣伝めきますが、せっかくだから言わせていただきますと、『あいだ』というのはほんの粗末な体裁のミニコミにすぎませんけれども、「美術と美術館のあいだを考える会」という有志の会が出している。この会は、ご存じの方もあると思いますが、富山県立近代美術館で展覧会を機に買い入れた版画作品が、昭和天皇の肖像を扱ったコラージュだったために、県議会で問題にされ、右翼も騒いで美術館がその作品を密かに売却し、図録の残部も焼却してしまったという、ちょっと今では考えられないような乱暴な事件が10年くらい前に起こりまして、それをきっかけに、表現規制の問題に限らず、日本の主として公的美術館の抱えている問題を検証していかないと、とんでもないことになるよ、ということで作られたものです。雑誌『あいだ』のほうは、もっと広く視座を構えて、美術館だけでなく、公共彫刻なども含めて、社会との接点を軸にもういっぺん美術というもののありようを考え直そう、とやっています。ひと昔で言うと、美術の環境学ですね。既成美術ジャーナリズムの取りこぼしを埋めようと、誌面には美術館の運営のされ方に対する批判も出てきます。成果というと、早速目に見える形にはならないですが、とくに美術館の学芸員には気になる存在であって欲しいとは思います。当事者にとっては嫌味をぶつけられて不愉快に思われる程度の成果はあるかもしれません(笑)。
[藤枝]…本日のトークショーのテーマ「現代日本美術の真実」の<真実>は、たとえばもの派について、もっと嘘ではないことを田中さんたちとお話をしようと思っていたのです。それと美術館が日本近代・現代を集め出しておりますが、あまりにでたらめが横行しているのでそれを糾そうとしたのです。
[福住]…たいへんつまらない補足をさせていただきます。「批評の堕落」ということで最近目に留まった一例をあげておきますと、ある新聞の展評を批評家でも常連が受け持つようになったのですが、その中のある美術評論家が、福島県立美術館での「コラボレーション」というのを取り上げていた。筋は忘れましたが、その記事の枕に、コラボレーションの先駆的な例として、ウォーホルのファクトリーの活動と、日本では瀧口修造を中心とした実験工房なんて書いているので、ぎょっとしました。ファクトリーの活動をコラボレーションと言うにはちょっと乱暴だし、実験工房にはいくらか当てはまるにしても、瀧口氏はあのグループに命名しただけで、直接関わったわけではない。例に出すならもっと適切なものがいくらでもあるのに、よく調べもしないでこういうことをしゃあしゃあと言ってのけられると、本当に頭にくるんですよ。しかも、業界的に言えば、この評論家はかつて戦後美術における瀧口修造を批判的に捉え直す必要を雑誌で喋っていた人ですから、何をかいわんや、です。プロならプロらしくやって欲しい。
[藤枝]…ぼくは新聞の批評は例外を除き読みません。新聞はテレビ欄しか読みませんから、それは知りませんでした。
[福住]…同じく学芸員で、カタログのテキストに「今や新しいものは何もない」と、大した論拠もなしに書いていた人が、僕が知る限り少なくとも2名います。そう思うのはいいけれど、それでやれるものならやってみろ、と言いたい。「東西冷戦構造の崩壊後」なんて語り出す評論家も嫌でしたね。
[藤枝]…しかしながら、そういうのをチェックする場所はないんですね。
[福住]…『あいだ』にならありますよ。
[藤枝]…残念ながら『あいだ』にしかないんですね、真実は。というわけで、このシンポジウムをずっと細分化して5、6回やらないと正しい歴史を検証できないですね。もう時間もありませんので質問をいくつか受けつけて終わりにしたいと思います。
[会場A]…簡単にで結構ですので、最低限今までの日本の美術でこれはいいんじゃないかという、もし肯定できるものがあればひと言でお願いします。
[藤枝]…ではお3方、今の質問について。
[田中]…今でも私自身表現に携わっていて、同じ表現者の作品を具体的に肯定したり否定したりして眺めたことがないので、まして日本の作家には無関心で、突然言われてもちょっと出てきません。
無理してでもと言われれば、一つは、河原温の「デイト・ペインティング」かな。1970年、東京ビエンナーレ「人間と物質」展の時、河原さんと私で一つの部屋に展示しました。私は床を使って、河原さんが壁。物質性が前面に出た美術展で、もの派もぶっ飛ぶ、本家アルテ・ポーヴェラの連中もそっくり顔を揃えていました。そんな会場で一人だけ、小さな矩形のキャンヴァスが並べられて、日付が印刷のように書いてあるだけ。30年前のことです。新鮮な感動とおののきを持って見ました。すごいアイデアだと思いました。
それからこれはたまたま最近、豊田市美術館で一点だけ見たんですが、草間彌生の白いキャンヴァスの上の白い網の平面。草間さんは好きな作家ではありませんが、その絵だけは網膜に焼きつきました。平面は恐いですね。あまい作品は簡単に壁に負けてしまう。
そうですね、後はちょっと思い浮かばないな。
[福住]…ぼくはある意味では藤枝さんみたいだけれど、どちらかというと批判によって鼓舞する方法を選ぶほうなんで、褒めるほうはちょっと控えさせていただきます。
[田中]…失敗した。僕もそう言えばよかった。
[福住]…この分野で長いものですから、すれっからしになって多少斜に構えてしまうところがあるのですが、美術にそれほど大した期待を持っているわけではなく、目の前に現われてくるものを淡々と見ていくほかないと思っています。ただ、派手なメディア・パフォーマンスをしないと、作家として認められないような昨今の状況の中で、ひっそりと埋もれたようにいい仕事をしていた作家や、現に作家として括動している人に出会えればいいな、とは思ったりしますね。
[松本]…美術館に勤めて20年近くなりますが、勤めている美術館は展覧会は外国物もやるけれども、コレクションは9割以上日本のものなんです。日本の洋画、日本画、現代美術をちゃんと見ない外国人は、見た途端にイミテーションの連続だという顔をしますし、日本人は、外国人から以上に日本人から真似と言われるのを恐がる。自分は他人の真似だけはしたくない、と。しかし、それを純粋に突き詰めていくと、要するにロビンソン・クルーソーみたいに孤島で作品を作らなければならなくなる。明治以降の日本の作家は、美術館も含めて、真似ということについて極端な被害妄想のようなものを持っていた。ポストモダン議論の中核の一つは芸術のオリジナリティをめぐるものでしたが、日本の近代作家は、オリジナリティという観念を極めて特殊な、マゾヒスティックなまでの強迫観念として抱えてやってきた。どの作家がいいかという質問に対してなんの答えにもなっていませんが、十数年見ているうちに、一見何かをお手本にしている、あるいは真似しているように見えるものの中にも、お手本の国の作家では逆立ちしてもできない部分があることがわかってきたんです。そういう意味では、真似を恐れるなというか、そういう転倒したオリジナリティのことを考えてもいいんじゃないかと。どの作家というのではなく、日本の作家、明治から現代まで、わりと捨てたもんでもないのになと、これが本心です。
[藤枝]…断片的になりすぎましたけども、時間がまいりましたので一応終わりにしたいと思います。ご清聴ありがとうございました。
●田中信太郎
1940年生まれ。1958年フォルム洋画研究所に学ぶ。ネオダダでの活動ののち、65年の初個展を境にミニマルな作品へと大きな変革を遂げる。72年ヴェネチアビエンナーレ日本代表。1977年文化庁芸術家在外研修員として1年間ニューヨーク、パリに滞在。
●福住治夫
兵庫県生まれ。早稲田大学第一政経学部卒業。1966年、美術出版社に入社。『美術手帖』、書籍編集などに従事。80年、退社。以後、フリーとして翻訳・編集・執筆などを行なう。最近はミニコミ月刊誌『あいだ』(発行:美術と美術館のあいだを考える会)を主宰。
●松本透
1955年東京生まれ。京都大学大学院修士課程修了。東京国立近代美術館美術課長。論文「カンディンスキーの芸術理論における絵画の形式と内容の問題」、翻訳『カンディンスキー--抽象絵画と神秘思想』(S.リングポム著)ほか。手がけた展覧会は「現代芸術への視点--色彩とモノクローム」展、「カンディンスキー」展、「村岡三郎」展など。
●藤枝晃雄
1936年生まれ。美術批評。現在、武蔵野美術大学教授。著書に『現代美術の展開』『絵画論の現在』『ジャクソン・ポロック』ほか。
(※略歴は1999年当時)