2000年4月21日~5月12日
山本晶の仕事は、いっけんすると絵画行為の原初的な作法を想わせる。線によって定着された一部のかたちが、外界の実在物を連想させることにおいて。そのかたちに沿った色彩は、物の固有色ではなく自分の感じた色彩を選びとっていることにおいて、である。だが山本の作品を凝視していくと、その一般的な作法定義にあてはまらないことに気づかされる。まずそれは、画面を分節化する線の重なりと反発から色彩が生まれ出てくるようにみえることだ。
一本の線が降ろされたとき、画面の平面性が破壊されると同時に、三次元的ななにものかが発生するだろう。そこで山本はくかたち>を形づくらずに、線と色彩を継起的に出現させ、そこに構造的な深さを与えていくのである。その単彩の線はつねに無限の色彩を秘めているのだが、山本はそれにゆだねるようにして、基本色相を軸に多様な色彩をとりだしていく。切断的な線によって色彩が複数化し、画面の構造もまた多層化する。その連続しつつ切断していく線は、生起と消滅の流動的なサイクルを暗示してもいる。そこでは、絵画にのみ課せられたところのデモーニッシュな力を発散させているように思う。
制作の発表が開始された頃は、抽象への意志としてその構造化への態度は一貫していたが、全体のイメージは、自然主義的な絵画の名残りというべきか、有機的なムーヴマンがみてとれ、地と図の関係か浮き立ち、それはまた独特の叙情性を醸し出していた。その持ち味は、山本のものに違いない。しかしまた少しずつ、幾何的な線というよりも、無機的な直・曲線が前面に出てくるようになってきた。これは先述したように、外界の実在物一般のかたちというよりも、既存の容器など、諸製品の輪郭のそれのみならず、グラビア雑誌など複製印刷物の映像イメージからの示唆を、穐極的に取り入れていったことによるようだ。しかして、もともと色彩感覚に富んだ山本晶の可能性をさらに引き出し、同時に、画布の面積や比率を意識させ、叙情性を抑えつつ、それを軽快に漂わせるという、独特の領域に入り込んだ。そこで色彩の、かたちのリズムか相補的に関係づけられて、部分と全体の未分離の構造化が促進された。その全体性の獲得は、山本の仕事のひとつの到達点だと思うし、そこでの基本色相の扱いは理論的秩序から飛躍し、画面の中に解体され、さらに高い次元に生かしめられている。