2001年6月29日~7月20日
O JUNが1980年代未に繰り広げた一連のパフォーマンスは、一抱えほどもある手製の合金ペンで画廊やアトリエの壁に縦横に線を引きながら、画家の身体と、画材と、画像の連続性への思い込みそのものをいわば演劇的に戯画化するものであった。かれのことばを借りれば、描くことの「半歩手前」に遡行する試み。――こうして、白身の〔内面の〕延長線上に絵画が成立するかのような近代の信仰を振り切りつつあったかれがドイツに渡ったのは1990年のことである。94年に帰国してからのかれの仕事については、知る人は知っているであろう。取りつく島のないほど無表情な、おそらく描いた本人も正体を知らない男たちや、共同体的に定型化された日の出や山の端の光景を暗号的に解体した図柄、あるいは紋章や徽章そのもの、さらにはつよい既視感をもつ秘密めいた一軒屋などが、なんの断りもなく、忽然と姿を現わしはじめたのである。
R.シュタイナーによれば、わたしたちの魂が物質界でいとなむすべてのことは、霊界のなかにその対応物(原像)をもっているという。ぺつだん、O JUNを神智論者になぞらえるつもりはないが、かれの絵画の特異なリアリズムの質にふれようとすると、どうしても現実と並行する〔つまり、それとけっして交わることのない〕もう一つ別の世界を想定せざるをえない。――ひょっとして、原像とその似像は、あたかも鏡面のあちら側とこちら側のように他者性を媒介にして向き合っているのではないか〔真実は想い起こされるほかないのではないか〕。だとすると、絵画における現在とは、時の流れの切断面であると同時に、過去と未来が背中あわせに接する境界面にほかならないではないか。こうして、フォルムの現前性と回帰性を二親とするキマイラのような絵が生まれることになった。