2001年9月14日~10月5日
撮影:横澤典
家々の灯りを散りばめた、郊外の夜景。あるいは白昼、雪に埋もれた市街。横澤は、ありふれた街のほんのすこし非日常的な姿を、淡々と遠望する。すみずみまで作家性(オーサーシップ)のゆきわたった「風景(ランドスケープ」写真というよりは、まるで「作者」なしで世界がそのまま見るものの眼前に姿を現わしたかのような、「眺め(ヴュー)」と呼びたくなる写真(ロザリンド・クラウス「写真のディスクール空間」を参照。ただしここでの区分は厳密にはクラウスのそれと一致しない)。
それにしてもこれは、いったいどこからの「眺め」なのか? 飛行機ほど高空からではない。でもビルの屋上よりはずっと高いところからだろう。けれどそこは、天使でもないただの写真家が、たやすく位置することができる場所なのか?
特異な視点。だがその特異性は、窓という被写体(それははっきりとひとの気配を感じさせる)の親しみやすさによって、そして厚い闇や雪がつくりだすフラットな空間によって、曖昧にされる。わたしたちはこの曖昧な距離感のおかげで、ひとつひとつの窓の向こうにある暮らしを、このうえなくリアルなものとして想像することができる。雪や闇は、窓と窓、灯と灯のあいだをつなぐだけでなく、その世界と写真を見ているわたしたちとをつなぐ、メディウムとなる。
けれどわたしたちはそのいっぽうで、そこに写されている世界のどこにもついに自分の手は届かないのだ、と確信もする。すっかり充眞された雪や闇はまた、わたしたちがそれ以上その世界に立ち入ることがないよう、柔らかく拒絶してもいるのだ。
結局わたしたちはその写真を、ありふれた「眺め」のひとつとして受け入れるだろう。それでももしそのとき、かすかな胸騒ぎをおぼえることがあるとすれば、それは、自分がその世界と連続しながら拒絶された、ちょうど天地の中間を生きる天使になったかのような感覚にとらわれるからであり、そしてなにより、ついに特異な視点からしかありえない「眺め」、つまりそうした天使でもなければまず見ることのできない「絶景(アブソリュート・ヴューズ)」をいま自分は眼にしているのではという予感が、わたしたちの脳裏をよぎるからにほかならない。