2000年6月30日~7月21日
その物理的なヴォリュームの乏しさに反して、前沢の作品は強い印象を残す。たぶんそれはその作品が、わたしたちの慣れ親しんだ思考のモードに逆らうものだからだ。
このアーティストは、いらだっているのかもしれない。わたしたちの思考がとらえる世界が、あまりになめらかに連続してしまっていることに。わたしたちの多くがそんなふうにして、世界をやり過ごしてしまっていることに。
野ざらしになった岩や、室内の壁、床を走るひび。個展の案内状の裏面、白地に白インクで刷られたテキスト。ペンキに塗り込められかけた、壁紙の織り目。前沢は、そんなわずかな隙間や段差といったものに注意を向けさせることに、これまで異常といっていいほどの強い執着を示してきた。
なんの変哲もない、文字通りとりつく島のないないように見える世界のうちにさえも、そうした隙間のように不連続な箇所、あるいはとっかかりとなる継ぎ目は、必ずある。そして、わたしたちがスムースに世界を理解するために「流して」しまうその継ぎ目のところで、彼女の作品は、いちいちつまづき、こすれて見せる。そのときそれは、そんなふうにして世界にかかわる思考の姿を、わたしたちに示すだろう。
もちろん、彼女にとってもその作品を見るわたしたちにとっても、ひとたび気づいてしまえばそのあとは、世界にそんな継ぎ目があるとは、どこまでも自明のことにすぎない。とすれば、その継ぎ目=作品が見えるとか見えないとかいった(擬似)問題に、彼女もわたしたちも、いつまでも留まってはいられない。見えなさそうで見える、その境界線上で演出されたスリルは、長続きしない。すべてが明らかにそこにある、そのところからはじめて、なおそこにどのようなスリルを与えられるかが、問われなければならないはずだ。
たぶん前沢は、このことに自覚的だろう。成功しているかどうかはともかく、すくなくとも彼女が、ときに見る者がとまどうくらいに多種多様な方法を試みるのは、この自覚のあらわれのはずだ。