2000年11月24日~12月15日
撮影:小松信夫
[1]中途半端な映像。物語となるまでの十分な持続を与えられず、さりとて一枚の写真となるだけの瞬時性も与えられず、そして強迫症的な映像となるだけの、反復も与えられない――関口の映像作品は、途方に暮れてしまったように/しかたなく、ぼんやりと同じ風景を繰り返す。
[2]きれぎれのことば。関口自身が「挿話の習作」と呼んだもの。「挿話」の、しかも「習作」。たとえば「複数の声」とか、「複数の小さな物語」の必要性を(本当のポストモダンはこれからだ、と蒸し返しながら)説くむきもあるけれど、関口のことばは、まだ「挿話」の「習作」でしかない。つまりこれもまた断片的にすぎて、そうした声や物語の一単位にも届かない。
そのとき、落ち着き先のないそれら断片的なことばは、どこへゆくだろうか。さしあたりの着地点を、字義通りの行為の遂行に見出すだろう。まるで自分白身の機能を確かめようとするかのように。そうしてたとえば“brush up”は、何度も「やり直し」ながらブラシを立てる、不条理なゲームとなる。
そして「はい/いいえ」今回の展覧会に向けて、会場を下見に来た彼が偶然見つけたのは、「はい」のなかにさも当然のように「いいえ」が入っている、そんな紙箱だった。“brush up”の作者が、そのエラーのユーモアに目を留めないはずはない。
こうしていつのまにか言語の機能を問題にしている作品は、関口の隠れたコンセプチュアリストの資質を、明らかにする。
[3]途絶える形態。たとえば角材は、その先端からどうにも中途半端なところまでが、ビニールでくるまれる。白い塗料は最初のひと刷毛のところで終わり。板材にいれてみた鑿も途中で止めるから、めくれた木屑はまだその材についたまま。
あらゆる素材に、彼は徹底して中途半端に接するだろう。そこには断片的な形態がいくつも生まれる。それらはけっして有機的に構成されることなく、与えられた空間のなかに、とつとつと配されてゆく。関口のこの形態に対するシュアな感覚は、ときに同列に扱われることもある、小さいものや細いものを作るほかの美術家たちと、はっきり一線を画している。
こうして、複数のメディアにわたる断片的な要素が、与えられた空間と時間に展開されるとき、白紙に巧みに置かれたとぎれとぎれの線が、紙の白の輝きをいっそう高めるときのように、関口の作品はまざれもない強度を持つ。