2001年1月12日~2月2日
撮影:小松信夫
ある物体、またある形象が、日常にある何ものかをすぐさま連想させるとき、人はとりあえずそのオリジナルの名を指すことで精神の安定を得る。それは客体としてのそれを認定する行為である。しかしまた、それがオリジナルとは別に実在することにおいて違うものである。そのとき、それと「似ていること」の意味そのものを問うことは、ほとんどない。そこでは、客観として「すでにあるもの」という事実を確認するのみである。しかし、その提示されたものが、個人の無意識下で「すでにあるもの」以上の感情を喚起させるとき、そこで主観的な関係を取りもつ。しかもなお、それが人類の遺伝子次元で集団的な「主観」性を保有する場合、図式的な客観/主観の関係は崩壊し、相対的なものとなる。そこではオリジナルな実在物ですら、けっして名詞化し得ない、曖昧で捉えがたいものに変容していくはずだ。川島亮子のインスタレーションは、その人類史の記憶を背景において、ある空間に「すでにあるはずのもの」を探ろうとする。厳密にいえば、見る者にその<指標>を示すことで、絶対的な空間の気配を示唆していく。それは「実在」という言葉の背後にある<生>と<死>の観念と切り離すことはできないだろう。
「似ていること」と「すでにあるもの」との比較をしてみたが、川島亮子の仕事の場合、それらは象徴的な有機体と幾何的な無機体との対比として表現されることが多い。一見、その二つは相容れない表情をもたされているが、それぞれが取り込む物理的な空間性(体積など)が等値的な関係にあって、主観と客観の関係が解体されたまま、それを宙吊りにして提示する。これを包括するのは、人間にとっての想像力のありかを問おうとする立場であるだろう。それらはいかにも、その象徴的なるものと幾何的なるものの極在において、絵画的象徴性や彫刻的な手わざを混在させているようにみえる。しかしその主題は、限定されたギャラリー空間において、その全体の空間を一つの<空間体>、ないしは<環境的世界>として把握することにある。その意識はしばしば、氷という透明の溶ける物質や、金網やFRPのメッシュなど半透明の透過材によって露出し、また双生(それは<生>と<死>の併有ともいえる)のイメージの導入によって強化されてもいる。そのことは、不可視の、<絶対空間>を暗示しつつも、それは川島自身が空間を歪め作り上げていく、という、芸術表現の特権を駆使している証左ともなっている。