『絵画、それを愛と呼ぶことにしよう』 vol.3 安藤陽子

2012年6月30日(土)~7月28日(土)

photo:「portrait-26」2011, 絹本着彩、130.3×97cm


安藤陽子の描く顔と、それを前にすることの意味。

保坂健二朗

彼らが悲しんでいるのか微笑んでいるのか。思いを寄せてくれているのか哀れんでいるのか。まだ生きているのかもう死んでしまったのか。それはわからない。どちらにも決められない。でも、戸惑う必要などない。わかることだけに立ちむかえばよい。それが顔であることを、自分のものではない以上は間違いなく他人の顔であることを認め られればよい。
ここでひとつ確認しておかなければならない。安藤は決して「肖像画」を描いているのではないのだ。肖像画とは、その名の通り、誰かの肖像を平面のイメージで表した作品のことである。そこでは、たとえ匿名的存在であったとしても、誰か別の存在の外的・内的特徴を捉えることが目的とさ れている。描かれている人物の個性が、ある絵画空間との緊張関係の中でよく示されていると感じ取れるとき、私たちはそれを優れた肖像画だと感じる。
安藤の絵は、こうした意味での肖像画とはおよそ目的が(あるいは機能が)異なる。彼女はただ、私たちが本当はよく知っているはずの「顔」という存在を捉えようとしているのだ。より具体的に言えば、他人の顔を前にした時のまなざしのあり方、あるいは心の在り様に彼女の関心は向かっている。どういうことか?
哲学者アルフォンソ・リンギスは『何も共有していない者たちの共同体』(野谷啓二訳)の中でこう言っている。「私が他者の顔の上に見るものは光の凝縮のようなものです。(中略)人は光によって呼び出されるのです。光は召還のようなものです。光は私たちを誰かの視線のなかに呼び出すのです。」
私たちを世界に招き入れるきっかけとして、光は、あるいは顔はある。では、なぜ私たちは顔の上に光の凝縮を見てしまうのだろうか?それは顔が、「有機体の開 示=露呈の場であり、有機体の傷つきやすさが露わになる場である」からだろう。そこから、こうも言い換えられる。「顔が顔であるのは、敬意を払って顔を見る、伏し目の視線を要求するから」なのだ。
「顔を見る」とは、それをためつすがめつ解剖的に見ることではなくて、他人との間で、互いに敬意をこめた視線を交わすことを意味していなければならない。そうした顔のあり方が忘れられている今日、安藤の作品の持つ意味は、はかりしれなく大きい。
2012年6月11日 大阪・ミナミで起きた事件のニュースを聞きながら脱稿

▊安藤陽子 あんどう・ようこ▊
1979年長野県生まれ。2005年愛知県立芸術大学大学院美術研究科日本画専攻修了。主な個展に2010年 「ポートレイト 静かな光」(INAXギャラリー2、東京)、2009年「個展」(NODA CONTEMPORARY、名古屋)、「青」(ギャラリー芽楽、名古屋)、2007年「追憶」(ギャラリー芽楽、名古屋)など。主なグループ展に2011 年「アイチ・ジーン」(豊田市美術館、愛知)、「芽楽・ミニアチュール展」(ギャラリー芽楽、名古屋 2006年~毎年)、「シェル美術賞展2008」(代官山ヒルサイドフォーラム、東京)など多数。受賞歴に2008年「シェル美術賞2008」入選、 2003年「第88回秋の院展」入選。
http://www.andoyoko.com/

(左)「portrait-23」 2011, 絹本彩色, 130.3×97cm
(中)「flower-05」 2010, 絹本彩色, φ45cm
(右)「portrait-12」 2009, 絹本彩色, 100×80.3cm