αMプロジェクト1988-1989 vol.18 須藤泰規+瀬島匠


1990年3月13日~4月7日



シンボリック・マテリアライゼーション 須藤泰規、瀬島匠の作品について




たにあらた

ここに登場する二人の作家(須藤泰規、瀬島匠)の作品は、絵画という表象の産物のカテゴリーに属そうと希求しつつ、同時にあえて“絵画の方法としての禁忌”を志向しようとする。

共通軸は、顔料そのものの物質的マチエール化の現象と、マチエール化しようとする金属のetc.の物質の参入を受け入れていることである。そのため画面はデコボコで荒々しく、時に破綻的でかつ粘着的なディテールを見せるようになっている。

今、なぜそれほどまでの反絵画的・物質的マチエールの台頭なのか。これらの表現のなかにはアンフォルメルやネオ・ダダの時代の表現やマチエールのありようとイメージ的にクロスするおもむきを呈しているものもあるが、この隔世遺伝的切り口で眺めようとすれば、もはや彼らの作倹は韜晦に近い何ものかであるだろう。やはり今様の別な切り口を立てて眺めるしかないのである。

少し視点を翻らせて昨今の絵画作品を印象的に大雑把にくくると、方法としてオーソドキシーに依るものが一方で顕著であり、片や絵画をひとつのシーンとしてとらえたイメージ・レベルのモダニティ狙いの表現が浮上してくる。

前者の特徴は、表現の奇抜さや革新性より圧倒的に作品そのものの質の高さが優位に立つ。対して後者はネオ・エクスプレッショニズムのウェーヴが引いたあとの余韻の情況と地口が合っている。いずれも質的高度化はゆるぎないものだが、口当たりのよい絵画の売買ゲームに乗りそうな作品が主軸を成しており、現代美術がある意味で特化してきた生成の苦渋はさして感じられない。
そのことの是非はともかくとして、あえてこの現象と瀬島、須藤の表現との間に境位を設けるとすれば、好意的な意味での“わからなさ”であるだろう。それらは現代の表現情況に対するアンチテーゼの臭いを発しているばかりでなく、次代へのメッセージを予感させる表現ということも可能である。

瀬島は鉛、鉄、銅などの金属とアクリル、墨など多様多彩なマテリアルや顔料を用いてハードで強靭なマチエールを形成している。走る犬(「Runner」)や「安全靴」など身近なモチーフをクローズアップしたジャクスタポーズのレリーフから最近作ではほとんど形象の消えかかった風景をモチーフにした作品を発表している。

須藤は具体的なモチーフの解体を進めることで流動もしくは揺らぐような色面抽象に転移した(「感情の転移」)が、近作ではこの顔料のみの構成からさらに逸脱し、ねじれた紙や小石(ブロックを割って小片化したもの)などを表現の材料として登場させている。意味不明の物質的マチエールのざわめきが近作の特徴である。
これらは、まだひとつの筋目で見ることは難しく、また韜晦と印象づけられてしまうことも避けられないが、ややもすれば骨抜きの表象と化そうとしている今日の映画の問題に対する恰好の問いの発信と筋づけることもできるだろう。