1988年7月5日~7月30日
ここに登場する4人は、これまでまったく別な環境下で制作・発表を続けてきた。しかしまだ発表歴も浅く、未知数の要素も多い。
ただ、「時代」とは不思議なもので、その時代の申し子というものを造る。作品や作家の資質に、その時代の「気分」や特性を反映させようとするのだ。
彼らは、そのように見ようとする私の眼に必ずしも同意しているとは限らない。おそらくもっと自らに率直に作品を形成しようとしてきたはずだし、今回のこの企画のテーマ性にも、いくぶんかの“隔り”を感じているはずである。だが、そうであることがむしろ、グループ展の企画という共通軸を穿つ意識を喚起させ、彼らの制作のモチベーションを、より本質的な“在所”に向かわしめるはずである。
ところで、彼らの作品に関する共通軸とは何か。
それは、この企画のテーマとなっている“Carve Construction”ということである。その意味内容をわかりやすくするために「新世代の彫構築」という副題をつけた。意味するところは同じである。
具体的な作品に即せば、今井真正は木の表面を削っていくことでフォルムを得る伝統的な木彫の方法に根ざしているが、これでひとつの作品とするにとどまらず、その上から蝋をたらしてコーティングしている。したがって彫るという作業は最終的な作品決定の要因たりえず、半ば隠蔽されたものとして別次元の見え方を誘発する。卑近な印象でいえば まゆ・・を、遠望すると、今後、器官化されるかも知れない原形質的雰囲気を醸す。今井流にそれを「宇宙」といいかえてもよい。
川村正之の作品は、先端部が特異な形状によって際立たせられる。木を削ることによって得られる渦巻くような形態や、その部分を板金に変えて同趣の形態にしている場合もある。それら先端部はシンプルな円柱に接続されており、そのため先端部はより視覚的に特化され、時にオーナメントを冠した建築意匠を想起させることがある。
小池雅久は、ラフな木組みによって作品の構造を得ようとする。しかし、ラフとはいえ木組みの接合部はかなり強固なもので、仮設という展示空間を意図するものではなく、もっと視覚的にリアクションの強い構築性を滞びている。構築される素材そのものも存在感を際立たせるように荒く表面加工されている場合が多いが、そこからは部分においても具体的なリアクションを引き起こさせるように仕向けるという意識が感じられる。決して表象的なイメージに流れるものではない。
浜崎康宏の作品は、木や木のブロックを中心にした立体だが、彫刻や立体の流儀に反するような思いきった構築が特徴となる。時にそれは反重力的で、物質自信がめまいを引き起こしたかのような印象として提示される。今回の出品作に先立つ前作は、デイヴィッド・スミスを下敷きにしてみたくもなる作品傾向だが、構成というよりは生成(生長)するイメージの方が勝る。
彫刻にはもともと触覚的な意味あいも大きい。彼らはいずれもカーヴという技法を介在させて視覚性(視覚的には近傍感)を喚起しつつ、作品自らが構築力を内在した確固たるべきものであるという志向性を表明しているように思える。
個々の作品が最終的に与える印象はさまざまであり、また「外部」のイメージに左右されている面が見られるとはいえ、作品が内側に抱え込んでいる問題点は奇妙に一致して見える。この時代の共通軸のひとつといえよう。