『現れの空間』 vol.2 木島孝文 × グループ2時間

2008年6月9日(月)~6月21日(土)

photo上:木島考文 展示風景(art space kimura ASK?)撮影:柳葉大 
photo下:パフォーマンス『Steve Reichを心の底から認める必要がある』by グループ2時間 撮影:柳葉大


私は最寄りの駅まで自転車を使うことが多いのだが、すでに暗くなった帰り道では交通も少ないので両手をハンドルから離して走ることもある。しかし、これを明るい昼間にやろうとすると、なぜかうまくできない。帰り道のほうが疲れていることも多く、運動能力の差は関係ないように思える。これは、どうも周りの風景が良く見えると自転車をこぐ体重のバランスをとれなくなるように思える。同じように身体を動かそうとしても、運動を制御する神経に視覚が大きな影響を及ぼしている。運動する者にとって風景は刻々と変わり続け、意識に及ぼす影響のあり方も絶えず変化するだろう。それが、毎日のように通っている道では、見慣れた風景のなかで効率の良い道順が選び取られ、注意を向ける箇所もあらかじめ分かっている。惰性とも言えるような習慣化された運動がいつもと違う集中力を得るようなきっかけとして視覚情報の欠落がある。周囲の環境はどんなに小さなものでも含めば変化を止めることはないが、それを感じ取る意識のほうには、習慣や認識といった受容するための固定化された枠組みが介在する。身ぶりや知識、言語、宗教などが、絶え間ない世界の変化と更新から私たちを疎外している。私たちの表現行為は、この変化を捉え損なった経験に向けられていると言ってもいいのではないだろうか。
テレビや雑誌に現れる企業のロゴマークや均質化された美や豊かさの表現は、言語やイメージが喚起する力を圧縮して交換しやすくさせたものである。可読性を優先し、その奥行きとして持つべきものを削り落としている。木島の作品で繰り返し使われている花の文様や文字は、そうして流通している記号に奥行きを回復させようとしているようにみえる。それぞれに花の属性や文字の意味するものがありながら、明瞭さを回避し、関係性の網の目をほつれさせている。電波や紙の上ではなく、重々しい素材の中に塗りこまれるようにして、物質と同一化させようとしている。記号が物質性を獲得するイメージを具現化したような、始原の光景と廃墟の光景のどちらにもみえる。そこで意識されるのは、何が描かれているかではなく、例えば、表面を塗り重ねたり、擦ったりした痕跡や、素材の厚みや大きさであったり、いわば身体性と関わってくるようなものである。整然と記号を配置させようとするには大きな手間を要する制作プロセスは不向きだし、いっぽうで全体を把握するには大きく、暗く、視覚は十分に機能しない。
もちろん身体が視覚に比べて自由だと言えるわけではなく、自然に馴らされた動きの形式を避けがたく持つ。ダンスやスポーツのように自由自在にみえる動きにこそ、そうした形式が発生するように。〈グループ2時間〉の試みは、動きにではなく時間に制約を設ける。
何かを欠如させることで獲得するものとは何だろうか。イメージでも、動きでも時間とともに常に変化し続けているために、すでに失っているはずのものがある。そのことを意識しなくても、記号はうまく意味と結びつくようになっている。この二組の表現は、その虚構を眺めるためのレッスンを与えてくれているような気がする。
そうした眺め方が今生きている私たちにとって重要なのは、流れすぎていく時間のその先に、私たちが捉え損なっている現実を別のかたちでつかまえるかもしれない、未来の他者がいるからである。そこに向かって少しずつ進むには、世界を意味が充満したひとつのものとしてとらえるよりも、何かが欠如した状態によって分断化されたように眺め、そこを流れる緩やかな風が必要なのかもしれない。あるはずのものがないという不安を抱えた者を、そっと後押ししてくれる風が。

住友文彦