『変成態―リアルな現代の物質性』 vol.6 金氏徹平

2009年11月28日(土)~12月26日(土)


photo: Hakuchizu, 2009, plaster, table, etc (detail), (C) Teppei Kaneuji



交通的造型

天野一夫

紙にコーヒーのシミが出来ていて、その輪郭を切り取り重ねていくと一つの立体的なものが現れる。または何かを覆うはずのシートを重ねて縛れば、一つのマッスのごときものとなる。あるいは大理石のような物質に液状のカラー印刷の切り抜きを塗布し、感覚的段差を囲い込んだままに存在している。さらには穴が穿たれ内と外の回路をつくる。無数のパーツ、型は意味を脱ぎすてながら増殖し、そして、石膏の「白」によって突然に均一化して在る。
金氏の作品の場では様々の物質が蝟集する。それらの物物は並列的で、時に主たる物質はあるものの、それは他に比して特権的なものとして存在しているわけではない。あくまでもそこでは断片化したものとしてあり、それは既存のものと自らの造型とが接合し分け隔て無く集積している。といってもそこには同一色、同寸などというように、次々に変化する編集のルールがあり、その細部の集積ルールがさらに集まって出来ていく。物は変転して止まないものとしてあるだろう。平面が立体に、あるいはその逆も可。そして液状のものが固形化し、固形物が液状化していくように、物質自身が変転し始めるのだ。それはこれまでのキュビスム以来のコラージュや、シュビッタースのメルツのようなアッサンブラージュや、ジャンクアートなどとも異なる。そこでは物と物とが素材感を利用されながらもぶつけられショートしていた。しかしここでは、もはや樹脂のようにその素材じたいが中間的で、そこに文学的な厚みや深度を持つことはない。アイロニーのような意味性とも無縁だ。おそらく金氏が物を「白」にするのは否定ではない。否定の否定をくりかえして捨象してきた近代知とは別の、無限の変転をみせ、パーツごとに勃興し、変転をくりかえす場が「白」なのだ。ここにありうべき「全体」はないだろう。造型は全てが部分として流動化し、そして化石化する。パーツパーツは集積し、ある張りぼての塊として出会い、そこを交通し、さらにはそのフレームじたいが常に解体する可能性も秘めていて、その物自身が変成可能性を孕んでいる。それは徹底的に一義的な物としての扱いを拒否し、不断に接合し、転生し、全体が何物かに変わるかを知らないままに、流動して存在している。「白」によるその流体の突然の差し当っての停止のように、その造型は不穏さを抱え込んだままにここに在るのだ。

▊金氏徹平 かねうじ・てっぺい▊
1978年大阪府生まれ。京都市立芸術大学大学院彫刻専攻修了。主な個展に2010年「Post- something」シュウゴアーツ、2009年「Tower」(Roslyn Oxley9 Gallery、シドニー、オーストラリア)、「金氏徹平溶け出す都市、空白の森」(横浜美術館)、2007年「金氏徹平展 splash & flake」(広島市現代美術館・ミュージアムスタジオ)など。主なグループ展に2009年「Platform 2009 Projects by Invited Curators」(KIMUSA、ほか ソウル、韓国)、「Re: Membering」Gallery LOOP(ソウル、韓国)、2008年「MOTアニュアル2008解きほぐすとき」(東京都現代美術館)、2007年「笑い展:現代アートにみる『おかしみ』の事情」(森美術館)、「美麗新世界:当代日本視覚文化」Long March Space、Inter Arts Center、東京画廊+BTAP、北京/広東美術館、広州)。など、国内外の多数の展覧会に出品。また2005年にはアーティスト・ユニットCOUMAとして横浜トリエンナーレ2005にも参加するなど活動は多岐にわたる。原の家』」(法然院講堂、京都)、2003年「越後妻有アートトリエンナーレ2003」(新潟)、2002年「東日本-彫刻39の造形美」(東京ステーションギャラリー、東京)、2001年「第19回現代日本彫刻展」(宇部市野外彫刻美術館、山口)2000年「プラスチックの時代―美術とデザイン―」(埼玉県立近代美術館、埼玉)、1988年「アート/生態系—美術表現の『自然』と『制作』」(宇都宮美術館、栃木)、「VOCA ’98 現代美術の展望―新しい平面の作家たち(上野の森美術館、東京)など。ルソン、メゾンエルメスなど、店舗のアートワークも手がけている。