絵と、  vol.4

千葉正也

2018年11月10日(土)~2019年1月12日(土)
(冬期休廊:12月23日〜1月7日)

アーティストトーク
11月10日(土)18時~

協力:シュウゴアーツ


絵になる男:千葉正也の作品について

蔵屋美香

1.
「絵と、 」と題するシリーズ企画は、2011年以降変化を続ける震災後の現実に絵画はどう関わりうるか、という問いをテーマにしている。今から4年前、2014年に開催されたグループ展「絵画の在りか」(東京オペラシティ アートギャラリー)のカタログに寄せたテキストで、わたしは千葉正也の作品についておおよそ次のように述べた。
千葉の作品には、壁に掛けるのではなく、キャンバスに垂木の脚が取り付けられ、自立するタイプのものがある。こうした作品では、木材と布地でできた物質としての絵画の性質が前面に押し出される。2011年の経験を経た目で見ると、それらの木材と布地は、災害時、即席の避難小屋の材料となり、人命を守るためすぐにでも役立つように感じられる。垂木を用いた作品は実際には震災前から制作されていたのだが、2011年の後、有用な物質として絵画を再認識させるこれらの作品の持つ意味は、より大きくなったように思える(1)。
このときわたしの頭にあったのは、文化人類学者、クロード・レヴィ=ストロースの「ブリコラージュ」(ありあわせの材料でなされる素人の手仕事)の概念や、考現学の創始者、今和次郎が収集した、関東大震災後に人々が廃材で作ったさまざまなバラックの事例などだった。
しかし今回千葉の話をくわしく聞くうち、この解釈はあまり当たっていないのではないかという気がしてきた。
ここで便宜的に、主体(subject)と客体(object)という西洋哲学の伝統的な二分法を用いてみよう。2014年のわたしの理解では、まず千葉という創造の主体がいる。その主体が絵画という客体(オブジェクト)を作る。このオブジェクトは、完成すれば主体の手を離れ外的な存在となる。この(千葉の場合木材と布地でできた)新しいオブジェクトは、現実のうちに新たに位置を占めることで、既存の現実の秩序をいくばくか組み替える。つまりこのようなやり方で千葉の絵画は現実に関わっていく。
ところが、どうも千葉はこの主体が客体を作る、という構図で制作を行っているわけではないようなのだ。絵画を描くとき、千葉はどんどん絵画の方に寄って行き、最終的には絵画の側から現実に対して何らかの操作を行なっている、という感覚を得るのだという。千葉にとって絵画の制作とは、客体のうちに移動して主体の地位を失う、つまり自らが「絵になる」事態を指すらしいのである。



2.
この点に踏み込む前に、今回の展示全体について述べておこう。この展示は、客体化する主体という上記の問題に関わる絵画作品だけでなく、千葉自身にとってもそれらの絵画とどう関係するのか定かではない多くの要素によって構成されている。
会場に入ってまず目につくのは、ベニヤの台に載せられた天井まで届く大きな鉢植えの木だ。ギャラリー内に4本、バックヤードの階段に1本の計5本ある。今回千葉は、2016年に開始した、スタジオの前にあるサルスベリの木にさまざまな作家の作品を展示するプロジェクト、「Jointed Tree Gallery」の活動をαMの会場に持ち込んだのだ。
手前の2本には、サウンドを主な素材として活動するアーティスト、角田俊也の初期作品が飾られている(「Jointed Tree Gallery #4」)。角田は千葉の中高時代の美術の教師だったそうで、千葉が添えたキャプションによれば、中でも「真っ黒でブヨブヨした塊を大空に飛ばす」黒いビニール袋を用いた作品(《黒ビニール袋風船 夏の大気を実感しようという企画》1987年)は、千葉の美術に対する姿勢に根本的な影響を与えたという(2)。
奥の3本は、千葉の親しい友人で夫婦のアーティスト、井出賢治と陳楚翹 (BUNCHI)の展示スペースである(「Jointed Tree Gallery #5」)。彼らに子どもが生まれたことに心を動かされた千葉は、「生後2ヶ月の子どもに見せる展示をしたい」という二人の話を聞き、出品を依頼した。千葉は「我が子への愛情という、理由無く湧き上がるポジティブな感情」を、美術が、そして展覧会がどのように扱えるのか知りたかった、と述べている(3)。
さて、これらの展示が樹上で行われていることの意味とは何だろう。千葉によれば、これにも相互にどう関係するのかいまだ不明ないくつかの理由がある。まず空間の上の方は空いているということ。そしてそこを使ってもっとたくさんの展示を行うことができれば「暮らしが良くなる気が」したこと(4)。さらに、枝や葉によって作品がよく見えない点や、首を曲げたり脚立に上ったりと見る者に身体的な労苦を課す点などである。



3.
「Jointed Tree Gallery」の展示の周囲の壁には、千葉が制作した絵画が掛けられている。これらはそれぞれ、おおよそ次のような層の積み重ねによって組み立てられている。

1)目の荒いキャンバス地
2)その上に荒く塗られたメディウムの地
3)そこに描かれた丸や三角などの幾何学図形
4)その上に描かれた、三次元的に飛び出すかのように見えるテーブル
5)テーブルの上に立っている体で描かれたボードのようなもの
6)そのボードの上に描かれた(または書かれた)ように見える文字
7)その文字が示す内容を補強するかのような人差し指の記号
8)ボードの上に留められたように描かれた付箋やピンなど

1)と2)は、かつての作品の垂木の脚のように絵画の物質性を際立たせる役目を持つ。3)は千葉によれば、現実のうちに指示対象を持たない純粋な抽象絵画の層である。4)、5)、8)はだまし絵のように細密なテーブルやボード、ピンといった対象の描写である。6)の文字は、モデルとなったボードの上に書かれた文字を描写したもののようにも、このキャンバスの表面に直に描かれた(または書かれた)もののようにも解釈でき、どちらかに決定することは不可能である。
4)から8)にきわめて本物らしく描かれた、しかし日常の中でまず見ることのない奇妙なテーブルやボードは中でも曲者だ。千葉はこれらのモチーフを自分で作っている。しかし先ほどの主体、客体の話に戻るなら、このモチーフ制作→絵画制作という作業は、ふつう考えるように千葉という主体がまずモチーフを自作し、次いで客体(オブジェクト)となって外在化したそれを、もう一つの創造物たる客体(オブジェクト)、すなわち絵画に描く、という構図のもとに行われるのではないらしい。千葉によれば、テーブルやボードの図は先に頭の中にある。モチーフを作らず頭の中の図を直にキャンバスに描いても、おそらく同じようなものができる。しかし、物体が重力にしたがって示す重みのようなものを取り入れるため、あたかも天ぷらを油にくぐらせるように一度「現実をくぐらせる」目的で、念のためモチーフを作るのだという。だが注意しよう。この過程のどこかで千葉はすでに絵画という客体と化している。だから頭の中にモチーフの図を持っているのは千葉ではなく絵画であるのかも知れず、とするなら、自らの望むように現実のうちにモチーフという客体を作り出しているのもまた、絵画という客体であるかも知れないのだ。
6)の文字と7)の人差し指も上記に劣らぬ曲者だ。文字の語る内容はたとえば次のようなものである。「You can sit down on this chair」「You can use this ladder to see the work」「You can use these binoculars to see the work」「You can use these headphones」。それぞれの絵画のそばには本当に椅子や脚立、双眼鏡やヘッドホンがある。つまりこれらは「Jointed Tree Gallery」の作品を見るための懇切丁寧なインストラクションになっているのだ。ちょうど「避難小屋の材料になる絵画」のように、これらの絵画は実用的な、いわば働く絵画である。
しかし、椅子に座ってよい、双眼鏡を使え、脚立に上れ、とさまざまな指示を出す、その発話元はいったい誰なのだろうか。これらの絵画を描いた千葉だろうか。しかし先に見たように千葉は今、絵画の側にいる。ということは、ここで見る者に妙な強制力を持つ指示を次々と与える、その発話者とはどうやら「絵画」なのである。
ついでに「this chair」「these headphones」といった文章に含まれる「this」や「these」という言葉が、状況によってどんな対象でも指し示す「指示代名詞」であることも心に留めよう。今は実際に椅子やヘッドホンの近くにあって、椅子やヘッドホンの使用を指示しているように見える。しかしこれらの絵画はいつ別の場所に移されるか知れない。そのとき「this」や「these」は、別の椅子、別のヘッドホン、あるいは椅子でもヘッドホンでもない何かを指して、見る者に行為を要求するかも知れないのだ。人差し指もまた、「this」や「these」と同じく、置かれる場所で何でも示しうる指示代名詞の性質を持つことは言うまでもない。



4.
このように得体の知れない作用を生み出す絵画作品だが、最後にこれらの絵画と「Jointed Tree Gallery」の関係を考えよう。
もちろん両者はまず、「Jointed Tree Gallery」の展示とその鑑賞を助ける指示書という主従の関係にある。もうひとつ際立つのは、恩師の作品に受けた影響や子どもの誕生に心を動かされた経験を動機とする「Jointed Tree Gallery」に横溢する千葉個人の存在と、千葉の主体が消滅した絵画作品との対比的な関係である。
千葉は当初今回の展示のステートメントに、イタロ・カルヴィーノの小説『木のぼり男爵』の一節を引用していた(5)。『木のぼり男爵』は、ある日木に登り、以後恋も冒険も人生のすべてを樹上で経験する男の物語である。男爵は一切地面を踏むことなく、木から木を伝ってどこまでも移動することができる。ここから推測するに、千葉は樹上の空間を、感情を備えた主体としての自分を保持しながら表現を行うことが可能な、一種の別世界として構想したのではないだろうか。対して絵画が位置する壁の領域は、千葉が主体を放棄することで初めて表現が可能になる苦労の多い場所である。しかしおそらく両者は相互に必要とし合う関係にある。
千葉自身がわからない部分が多いという今回の複雑な展示を、あまり単純に説明してはならない。しかしどうやら鍵は千葉という存在が、あるときは主体として、あるときは絵画という客体に化して、二様に機能する振る舞いの振幅にありそうだ。この展示は、絵画作品だけを見るのでも、「Jointed Tree Gallery」のようなプロジェクトだけを見るのでもわからない二つの側面から、千葉の絵画に対する特異な立ち位置を明かしてくれる。


(1)蔵屋美香「切ったはったの世界の修復」『絵画の在りか』展カタログ、東京オペラシティ アートギャラリー、2014年、pp.31-32
(2)会場に掲出された千葉のキャプションより
(3)同
(4)千葉による本展のステートメントより
(5)イタロ・カルヴィーノ(米川良夫訳)『木のぼり男爵』、白水社Uブックス、2018年。引用の一節(pp.335-336)は、樹木の葉や枝が織りなすレース模様を美しい言葉で描写した部分だったが、読み進めるうち、このレース模様が他ならぬ言葉が織りなすレース模様によってこそ作られていることがわかってくる。つまりここでは、描写する道具(言葉)と描写される対象(樹木)とがぴったり一致する幸福な状況が生じているのだ。

▊千葉正也 ちば・まさや▊

1980年神奈川県生まれ、同地在住。2005年多摩美術大学絵画学科油画専攻卒。
主な展覧会に、2017年「思い出をどうするかについて、ライトボックス風間接照明、八つ裂き光輪、キスしたい気持ち、家族の物語、相模川ストーンバーガー、わすれてメデューサ、50m先の要素などを用いて」(シュウゴアーツ、東京)、2017年「奥能登国際芸術祭」(2017年)、2016-2017年「Discordant Harmony」(広島市現代美術館、アート・ソンジェ・センター、Kuandu Museum of Fine Artsを巡回)、2013年「六本木 クロッシング 2013 展アウト・オブ・ダウト―来たるべき風景のために」(森美術館、東京)、2013年「Mono No Aware. Beauty of Things. Japanese Contemporary Art」(エルミタージュ美術館、ロシア)など多数。

(左)「うわさ話」2012年|キャンバスに油彩|165×145.2cm
(中)「みんなで冒険しようぜ #3」2017年|キャンバスに油彩|181.8x259cm
(右)「ウーロン茶を飲む男」2017年|キャンバスに油彩|65.2×53.7cm

アーティストトーク 千葉正也 × 蔵屋美香