TEXT - 「グラフィック的な線」と未完了な問いとしての「芸術家の生」

塚田優

αMプロジェクト2023–2024「開発と再開発」のステートメントにおいてゲストキュレーターを務める石川卓磨は、昨今のアートの新しさが、様式や美術館といった制度に依存した「限定的な価値基準*1」によって判断されているのではないかと問いを投げかけている。そのような惰性を批判することによって、アートの「再開発」を試みることが石川の狙いであることを踏まえると、平山昌尚を展覧会のラインナップに加えるのはさもありなんと言ったところだ。

なぜなら平山のアウトプットは展示やパフォーマンスといったアートに限定されておらず、アパレルやグッズといったデザインも含まれるからである。しかしこうしたジャンルを横断する表現者に対して費やされる言説は、往々にして個性の称揚に向かいがちだ。複数領域にまたがる成果物に現れる共通性を顕在化させるそうしたアプローチは、結果的に作家性を再帰的に強化することにしかならない。もちろん「作家に寄り添う」論評の社会的な役割を否定するわけではないが、それでは「個々人の表現活動を自由に展開できればいいという楽観的な気分*2」とは異なるアートの可能性を追求する石川のプロジェクトに対する言説としてはふさわしくない。ゆえに、以下では平山の仕事に対して属人的に言及することを避け、あえて彼のイラストレーションを歴史的に文脈化し、その上で、この度の個展「ニース」における作家の試みを批評として「再開発」してみたい。

近年の平山の絵画は、絵具による画面全体の塗り込みが特徴的であるが、以前は線描だけで成立している仕事も多かった。それはアート、デザイン双方の分野で見られた傾向で、ファッションアイテムやLINEスタンプに登場するイラストレーションは、どれもシンプルな描線で成立しているものばかりだ。日本においてイラストレーションは、図像、図版といった辞書的な意味と、作者の個性が絡まりながら、複数のスタイルが共存してきた。そんななか、2010年代以降に台頭したのはNoritakeを筆頭とする、白の背景にシンプルな線描で描かれたイラストレーションである。彼は横尾忠則や日比野克彦のような、作家的イラストレーターの評価が1990年代以降落ち着いていくにともなって「それと入れ替わるように機能性が高い、記号的かつアノニマスなイラストレーションが要請*3」されるようになったシーンにおいて、最適なイメージを供給している*4。彼のスタイルは多くの追随者を生み*5、塩川いづみや白根ゆたんぽ、現在はアーティストとしての活動が目立つ長場雄といった線描を主体とするイラストレーターたちとともに、ひとつの流行を作り出した。より若い世代では、わかるもコンスタントな活動を展開しており、これらのブームはすでに一定の存在感を獲得していると言えるだろう。

Noritakeはイラストレーションの情報伝達としての機能性を研ぎ澄まし、図像の原義に立ち返る。こうした傾向を背景に、平山はそんな同時代性と距離感をキープしつつも、部分的にはそれと並走し、シンプルなグラフィックでデザインの分野でも支持を獲得してきた。彼のLINEスタンプは、その記号的な図像のバリエーションであり、アパレルとのコラボレーションも含め、彼のイラストレーションには独特のユーモアが付与されている。それはシンプルで抜けのいいトレンド感にプラスアルファとなり、Noritakeをはじめとする、先にあげたような描き手との差異として機能するのだ。

このように平山を日本のイラストレーション史における線描の再評価、あるいはシンプルな図像への回帰を担う描き手のひとりとして位置づけるならば、彼のアーティストとしての活動も、その延長線上に考えることができるだろう。イラストレーションは一定の同一性を維持したまま不特定多数のメディアに転位させることができ、それによってイラストレーションは、その都度変わる支持体を定義し直すことで、いくつもの意味を獲得することができる。このことは翻って、イラストレーションは複数の展開にも耐えうる図像の強度を担保する必要があるということを意味するのだが、平山がそうした強度を備えていることは明らかだ。なぜなら平山のドローイング的な図像はアパレルであれギャラリーの壁面であれ、どこに置かれようと摩耗することなくイメージとしての存在感を放つからである。お洒落に敏感な若者にとって平山のイラストレーションが配されたアパレルはクールなファッションアイテムになり、アートに明るい人間であれば、平山の絵画はその手数の少なさゆえに、イメージに対する根本的な問いを孕んだものとして解釈を誘う*6。

このように分裂した受容が可能になる平山のイラストレーションの様態は、ヴァルター・ベンヤミンが述べるところの「グラフィック的な線」によって成立していると言えそうである。なぜなら「グラフィック的な線はこの地のうえにのみ存在する*7」ものであり、それによって「地」、つまり支持体との関係を規定するという特徴は、あくまでも「図」として存在することで支持体の上に存在し、自由に転位する平山のイラストレーションと共通しているからである。

そのような「地」と「図」の関係を、ジャンルにとらわれずダイナミックに操作してきた平山が、今回の個展でテーマに選んだのは、アンリ・マティスだった。自身のキャリアも後半にさしかかっていることを感じた平山は、「作家の晩年」に興味を持ち、マティスが中期から晩年にかけて制作の場としたニースを訪れた。会場にはその時の経験をもとに描かれた絵画が並んでいる。まず印象的だったのは、展示された11点のうち5点が組作品であることだ。しかし複数の絵で成立しているとはいえ、イメージはほぼ同一のものである。このことから連想されるのは、マティスが同一の主題を繰り返し描いていたことだろう。1943年に出版された画集『素描 テーマとバリエーション』においてマティスは肖像や自画像を繰り返し描きながら形態と戯れ、ときおり対象から遊離し、抽象へと転じかねない駆け引きをしながらバリエーションを展開している。

今回展示されている平山の組作品にも、そのような反復における差異が観察できるだろう。例えばマティスによる同名の作品も連想させる 「Dance」(2023)において、平山はクリーム色の地にグレーの人体のような形態を繰り返し描いている。18枚にわたって繰り返されるグレーのフォルムは、左辺や下辺のキワまで到達したり、到達しなかったりという差異によって、それぞれが異なる躍動感を生んでいる。時間的な継起性とはまた違う、シンコペーションするそのリズムは、マティスが反復のなかで図像の自律性や一般化を探る身振りと重なる部分が見出せるはずだ。

平山がマティスに対する関心を高めたのは自身の人生との関連であることをステートメントでは述べているが、そのことは、これまで図像表現を鍛えてきた平山の絵画に変質を促すことにもなっている。このことが分かりやすいのは《Sur la chaise longue(9560)》(2023)である。どこにでも転位できる図像を強みとして活動を続けてきた平山は、結果として地と図の分離、および安定的な前後関係がその仕事の前提になってきた。しかし花瓶に生けられた花のようなイメージが描かれた同作においては、画面左の花瓶、ピンクの花びら、花の茎によって囲まれた背景のグレーがそれらと干渉し、不透明な色彩もあいまって手前にわずかにせりだしている。先ほど私は平山の生み出すイメージに対して、ベンヤミンを引きながらそれを「グラフィック的な線」であると指摘したが、ベンヤミンは同じ文章のなかで対比させるように「絵画芸術」について語っている。いわく「絵画芸術には、地というものが存在せず、また、グラフィック的な線というものも存在しない*8」。ベンヤミンにとって絵画とは、地と図の秩序を前提としないものとして規定されており、《Sur la chaise longue(9560)》におけるせり出す背景が生む図との対等な関係は、近年背景を塗ることで地に対してアプローチを試みてきた平山の最新の成果と言えるだろう。

ここで再びマティスに戻ると、彼は絵画空間の統一性に批判的な画家だったことが思い起こされる。造形的な観点からすると彼の絵画は装飾、陰影、構成など様々な平面の論理が共存し、一歩間違えれば画面が破綻しかねないバランスで成立している。それを踏まえると、マティスは地と図が混然一体となった「絵画芸術」の追求者だと言える。ゆえに平山が先に指摘したような領域に導かれるのも、ごく自然な成り行きだったと指摘することもできるだろう。

個人的にはこうした平山の変質が、デザインの仕事にどうフィードバックされるのかが気になるところだ。だがその一方で、今回彼が足を踏み入れた絵画空間の探求は、これまで図的な表現に注力してきたからこそ、印象的に訴求できていた向きもある。この手の実践はすでにあらゆる展開が試みられており、画家の「口実」としては使い古されている。もちろん本稿が触れなかった場所性を重視するアプローチもありうるだろうが、どのような形をとるにしろ、この度の個展で俎上にあげられた「芸術家の生」は、平山自身の問題として、引き続き問われることになるだろう。

 

*1 石川卓磨「開発の再開発」、αMプロジェクト2023‒2024企画プレスリリース、https://gallery-alpham.com/wp-content/uploads/2023/04/pressrelease_2023-2024_.pdf

*2 同前

*3 Noritake「Noritake インタビュー 聞き手:室賀清徳」『Works』グラフィック社、2020、p. 331

*4 もちろん、2000年代にそうした動向の先鞭をつけたのは、寄藤文平のひねくれたユーモアだったことも忘れてはならない。

*5 Noritakeの作風は一見模倣しやすいために、多くのフォロワーを生んだが、近年の日本はいわゆる「パクリ」に対し敏感なこともあり、Noritakeのスタイルはそのような形で話題になったこともある。詳しくは次を参照。「自民党改憲ポスター「Noritakeさん作風に酷似?」→制作の電通「参考にしてない」」、弁護士ドットコムニュース、https://www.bengo4.com/c_23/n_10650/

*6 次のトークの冒頭で、石川は平山の需要のされ方の「パラドックス」について触れている。「gallery αM「開発の再開発 vol. 1 平山昌尚|ニース」平山昌尚×石川卓磨 20230520」、https://www.youtube.com/watch?v=M6sZu5W9vcM&t=4s

*7 ヴァルター・ベンヤミン「絵画芸術について、あるいはツァイヒェンとマール」『ベンヤミン・コレクション 5 思考のスペクトル』浅井健二郎編訳、ちくま学芸文庫、2010、p. 110

*8 同前、p. 114

 

▊塚田優(つかだ・ゆたか)▊

評論家。1988年生まれ。アニメーション、イラストレーション、美術の領域を中心に執筆活動等を行う。主な共著に『グラフィックデザイン・ブックガイド 文字・イメージ・思考の探究のために』(グラフィック社、2022年)がある。https://ytsukada.themedia.jp/