TEXT - 暗闇からフクロウ

蔵屋美香

 

1年におよぶ企画「絵と、 」が終了しました。ステートメントやそれぞれのトークの中で断片的に触れた、企画の背景を成すわたしの8年について補足します。

2011年3月11日
わたしは2011年3月11日をシンガポールで迎えました。だからあの揺れを経験していません。ゆえにわたしにとっての東日本大震災は、数分間の揺れのことではなく、その後今にいたるまでずっと続くこの社会の変化のことだと感じています。ステートメント(1)ではこの「ずっと続く変化」のことを仮に〈震災〉と呼ぶことにしました。

 

2013年5月
第55回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展の日本館で、田中功起個展「abstract speaking: sharing uncertainty and collective acts」のキュレーションを担当しました。田中さんの作品は、ヘアカットや作曲、作陶などさまざまな協働作業を行う人々の映像を通して、震災後の新しい社会をいかに作るかを比喩的に(またはabstractに(抽象的に))考えようとするものでした。
その前年、コンペによる展示案の選出が報じられると、「当事者ではないくせに被災者を代弁するな」という批判が寄せられました。そのときは「当事者にはなれないが当事者に思いを寄せる存在にはなれる。起こったことを忘れないためにもこの役割を放棄してはいけない」と反論しました。
しかし8年が経ってみると、震災をきっかけに社会は大きく変わり、わたしたちはみなその変化の波を頭からかぶる当事者となりました。「思いを寄せる非当事者」でいることなどもう不可能です。ひとつ厄災があると変化は長く、広く及びます。だから変化をこうむる当事者は時間が経つとともに増えていくのです。

 

2013年5月
勤め先の東京国立近代美術館に洋画家、岸田劉生の資料が収蔵されています。この中に、関東大震災(1923年)によって全壊した自宅の屋根に上って記念撮影する劉生一家の写真があります(fig.1)。以前は単なる美術史の資料に過ぎなかったこの写真が、3.11を経た後はとても生々しく見えました。劉生はこれを機に京都へと引越し、生活も作品も大きく変わります。初期肉筆浮世絵や中国の古画に夢中になり、制作も油彩画より墨画が増えていきます。関東大震災は劉生にとって決定的な経験でした。考えてみれば一人の人間の人生が、そして作品が変わって当然の大事件です。しかしわたしは、自分が3.11を(上記の意味で)経験するまでそのことを実感できていませんでした。
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Fig.1:岸田劉生とその家族、1923年 東京国立近代美術館

 

2013年10月
美術館では、上記の劉生以外にも関東大震災前後に制作された作品や資料をけっこう所蔵しています。そこで、関東大震災を起点に据え、1945年の敗戦までを扱うというテーマで、同僚たちと所蔵作品による特集展示を企画しました(「何かがおこってる:1907-1945の軌跡」2013年10月22日-2014年4月6日、「何かがおこってるⅡ:1923、1945、そして」2014年4月15日-8月24日)
関東大震災の直後、社会に一瞬自由の雰囲気が生まれました。若い美術家たちがいっせいに街に出て、安い費用で急ごしらえの建物に装飾を施したりしました。いわゆる「災害ユートピア」です。しかし1925年に治安維持法が制定されると、ものを言いづらい雰囲気が以前に増して強まりました。1933年には『蟹工船』の小説家、小林多喜二が獄死します。でもそうしたことに目を向けない限り日常生活は豊かで、大半の人々は映画や流行歌、旅行やスポーツを楽しみました。1940年には、紀元2600年記念日本万国博覧会およびアジア初のオリンピックの開催が、どちらも東京で予定されていました。しかし1937年に日中戦争が勃発すると二つとも中止となりました。その後日中戦争はそのまま太平洋戦争へと拡大します。
「何かがおこってる」を準備していたころには、公私を問わず被災地でのプロジェクトに携わる若手アーティストや建築家がまだあちこちにいました。展示がオープンする少し前の2013年9月、東京オリンピックの2020年開催が決定しました。翌2015年7月には安全保障関連法案が可決されました。まるで展示のために組み立てたストーリーを現実が追いかけているようでした。
いまでは多くの人が「現在の雰囲気は1930-40年代に似ている」と気づいています。でも2013-14年当時、まだそのような認識は広く共有されていませんでした。しかしわたしは企画を通して、関東大震災と東日本大震災の後、同じような出来事が似たような順序で起こっているという事実に比較的早く気がつきました。そこには繰り返しのパターンがあったのです。
企画から5年が経ち、今度は2025年の大阪万国博覧会開催も決まりました。2019年のいまから未来を予測したら、結果もやはり1930-40年代と同じことになるのでしょうか。

 

2013年10月
「何かがおこってる」を企画する中で、北脇昇(1901-1951)が俄然気になり出しました。北脇は1920年代から50年代まで京都で活動したシュルレアリスムの画家です。北脇は、ちょうど日中戦争が始まった年に、カエデの種を飛行機に見立てた《空港》(1937年)および《空の訣別》(同)という不思議な作品を制作しました(fig.2, fig.3)。特に《空の訣別》は、南京渡洋爆撃で墜落死した若いパイロットを主題とした作品であることがわかっています。つまり北脇は、表立っては表現しづらい時局に関わる主題を、カエデの種やサンゴを使って遠まわしに表そうとしたのです。もちろんわたしは以前から《空の訣別》の主題が日中戦争であることを知っていました。しかし劉生の写真と同様、自分がものを言いづらい社会に生きることになるまで、北脇がやろうとしていたことの切実さをほんとうには理解していませんでした。
しかし、遠まわしに時代を表すことも、あながち悪いばかりではないかも知れません。たとえば北脇の作品は、戦争を肯定するようにも否定するようにも見えません。戦闘機をカエデの種に置き換えて作り出したキャンバス上の異世界に身を置くことで、賛成派も反対派もともに熱狂の渦に巻き込まれたあの時代から距離を取り、冷静に状況を眺める目を獲得することができたのでしょう。
また、北脇の異世界は、現在のわたしたちにも開かれた場です。つまり、あいまいでどうにでも解釈できるがゆえに、わたしたちはそこに日中戦争前後の世相を読み込むことも、2011年以後の〈震災〉の状況を読み込むことも、さらには未来の厄災を読み込むこともできるのです。
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(左)Fig.2:北脇昇《空港》1937年 東京国立近代美術館
(右)Fig.3:北脇昇《空の訣別》1937年 東京国立近代美術館

 

2019年3月4日
ステートメントにも書いた通り、絵画は遅いメディアだと思います。写真や映像に比べると、「ええと、ええと、」と口ごもり勝ちで、すばやく出来事に反応する作品が次々出てくるわけではありません。のみならず、北脇のように直截的な表現を用いない作品に関しては、見る人にメッセージが伝わるまでにもまたずいぶん時間がかかります。
こんな風にいつも遅れてくる絵画に、ではわたしたちは何を期待できるのでしょうか。
「ミネルヴァのフクロウは夕暮れに飛び立つ」という、ドイツの哲学者、ヘーゲルの有名な言葉があります。ミネルヴァはローマの知恵の女神、フクロウはそのお供をする鳥で、知恵の象徴です。フクロウ(知恵)は、いろいろと事態が動く日中ではなく、それらが終わって陽が暮れてからやってくる。つまり、知恵は良くも悪くも即効性をもって現実に働きかける力ではない、という意味です。
絵画をこの知恵になぞらえてみましょう。
絵画はまず、即効性がないだけに、長い時間に耐えてメッセージを運ぶ力を持っています。
あるいは、繰り返すパターンのことを思い出しましょう。わたしは関東大震災後の経過をたどることで、こんにちの〈震災〉の事態を先回りして知りました。また、阪神大震災や9.11に反応した中村一美さんの作品は、あたかも次に来る東日本大震災を予言するかのようでした(2)。だから、ある厄災が終わった後の暗闇から飛んでくるフクロウもまた、実は夜が明けたら起こるだろう新しい事態についての予言と警告を携えているかも知れないのです。

 


(1)蔵屋美香「絵と、 」を参照。
(2)蔵屋美香「地すべり、期すべし」を参照。

 

キュレーター

▊蔵屋美香 くらや・みか▊
東京国立近代美術館 企画課長。千葉県生まれ、千葉大学大学院修了。
おもな展覧会に2017-2018年「没後40年 熊谷守一 生きるよろこび」(東京国立近代美術館)、2014-15年「高松次郎ミステリーズ」(保坂健二朗、桝田倫広と共同キュレーション)、2014年「泥とジェリー」(東京国立近代美術館)、2013年「第55回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展日本館キュレーション」(アーティスト:田中功起、特別表彰)、2011-12年「ぬぐ絵画―日本のヌード 1880-1945」(東京国立近代美術館、第24回倫雅美術奨励賞)、2009年「ヴィデオを待ちながら―映像、60年代から今日へ」(東京国立近代美術館、三輪健仁と共同キュレーション)、など。おもな論考に「麗子はどこにいる?―岸田劉生 1914-1918の肖像画」など。