『絵画、それを愛と呼ぶことにしよう』 vol.2 俵萌子

2012年5月26日(土)~6月23日(土)

photo:「untitled 2-04」2012, 油彩・キャンバス 162×194cm



俵萌子、絵画が絵画であるために

保坂健二朗

誤解を恐れずに言おう。俵の絵画に新しさはない。彼女が生み出そうとしている深さや美しさは、これまでも無数の画家たちが捉えようとしてきた「質」にほかならない。いまどきこんな絵を描かなくてもと思う人だっているだろう。
いまどきの絵。その多くは主観性に彩られた「質」にかかずらうなんて愚は犯さず、「装飾性」や「レイヤー」といった問題に取り組んでいる。でもそれらは結 局のところ、たとえば地と図の認識といったような、19世紀末から20世紀初頭にかけて生まれた心理学的な問題を源泉としている。実際のところ絵画では、それよりもさらに早くから、印象派、ポスト印象派、新印象派と続く流れの中で検証・展開されてきたのだけれど、とにかくその結果、画家たちは、(あまり気づいていないかもしれないが)絵画がなんらかの理論の図解(scheme,illustration)となってしまうおそれを漸次的に高めてきた。
しかしだ。絵画は図解であってはならない。絵画は絵画でなければならない。そう考えればこそ俵のような画家は、あえて前近代的な主観的な質に取り組む。「知覚(perception)」ではなくて「感情(affection)」に重きをおき、自分のうちに立ち上がる極めて私的な感情を頼りにしながら制作する。個的な感情を美や深さといった普遍的な問題に一挙につなげようとする。pre-impressionismの画家たちは、そうした無謀とも言える使 命を当然のごとく自らに任じていた。あるいは、今もそうしている。
ところで、個から普遍への飛躍を許すものを、18世紀後半に生きたノヴァーリスは愛と呼んでいた。彼はまた、愛は自然(Natur)と技術(Kunst)の間にあるべき関係だとも述べている。詩人であり鉱山技師でもあったノヴァーリスの言葉は、風景(自然)にも見える絵画(技術・芸術)を愚直に描き続ける俵を通して考えると、実に腑に落ちる。愛という、飛躍を許す関係性の概念を信じられない者に、美は訪れないのだ。もちろん、絵画も。

▊俵萌子 たわら・もえこ▊
1978年静岡県生まれ。2001年大阪教育大学教養学科芸術専攻美術コース卒業。主な個展に 2011年(2006年~毎年)Oギャラリーeyes、大阪、2011年Oギャラリー、東京、2008年Oギャラリー、東京、2005年Gallery H.O.T、大阪など。主なグループ展に2010年「トーキョーワンダーウォール公募2010」(東京都現代美術館)、2009年「Absolute basis 俵萌子と細田聡子の場合」(Oギャラリーeyes、大阪)、2008年「VOCA展2008」(上野の森美術館、東京)、2007年 「Drawing-Exposed essence 07」(Oギャラリーeyes、大阪)、2006年「elan」(Oギャラリーeyes、大阪)、2005年「シェル美術賞展2005」(代官山ヒルサイ ドフォーラム、東京)など。

(左)「untitled 09-15」 2009, 油彩・キャンバス, 162×194cm
(中)「untitled 10-06」 2010, 油彩・キャンバス, 162×194cm,
(右)「untitled 10-08」 2010, 油彩・キャンバス, 53×72.7cm,