αMプロジェクト2018
Painting and…
デザイン : 山田拓矢
今年の連続企画は絵画を取り上げます。これはギャラリーを運営する武蔵野美術大学からのリクエストです。お受けするかどうか迷いました。絵画はとても好きですが、わたし自身は近ごろ絵画をどう考えてよいのかわからなくなっているからです。個々の作品や作家によいなと思うものはあっても、ムーヴメントの盛り上がりやメディウムとしての新しい可能性を感じることは、特に日本国内について難しくなったと思っています。
こうした気分はわたしの場合、はっきりと3.11以後に強くなったものです。震災から7年が経ちましたが、この間社会では、異なる意見の排除が強まり、経済格差が拡大し、政権や国際関係のありようも大きく変化しました。
いま仮に、これらのアフターマス(余波)も含めてカッコ付きの〈震災〉と呼んでみることにします。この〈震災〉に呼応して、日本の美術界では社会に対して率直に発言する作品が目立つようになりました。その際、写真や映像、プロジェクト型の作品などは、メディウムがもともと持つ現実へのコミットの度合いの高さから、かなり率直な反応を示してきたように思います。しかし絵画は、絵具やキャンバスという物質のレベルはさておき、原理的には現実との関わりを持たずに色や形を組み立てることができます。もちろん政治的主題を直截的に描くこともできますが、関東大震災から戦時中の1920-40年代、戦後の1950-60年代にも試みられたこのやり方は、しばしば物事を単純化する危険を伴います。
絵画が現実に関わるよりよい方法とは。
あまりにベタな問いですが、この疑問を明るみに出し、真正面から扱わない限り、わたしのもやもやは晴れそうもありません。ついでに、「絵画」という一種の業界用語を使うと、結局問題が美術の枠内に収まってしまいそうなので、タイトルはあえて「絵」という言葉を使いました。
今回選んだペインターは、いずれも「絵と」現実を絵画ならではの方法で切り結ぼうとしています。「絵と」社会的出来事、「絵と」記号、「絵と」感覚など、「絵と、」の後に入る要素はさまざまです。彼らの試みを一つ一つていねいにたどるこの企画がわたしの、そして同じような疑問を抱えた人たちの、もやもやをはらす力強いきっかけになればと願っています。
以下のリンクよりお読みいただけます。
https://gallery-alpham.com/text/8755/▊蔵屋美香 くらや・みか▊
東京国立近代美術館 企画課長。千葉県生まれ、千葉大学大学院修了。
おもな展覧会に2017-2018年「没後40年 熊谷守一 生きるよろこび」(東京国立近代美術館)、2014-15年「高松次郎ミステリーズ」(保坂健二朗、桝田倫広と共同キュレーション)、2014年「泥とジェリー」(東京国立近代美術館)、2013年「第55回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展日本館キュレーション」(アーティスト:田中功起、特別表彰)、2011-12年「ぬぐ絵画―日本のヌード 1880-1945」(東京国立近代美術館、第24回倫雅美術奨励賞)、2009年「ヴィデオを待ちながら―映像、60年代から今日へ」(東京国立近代美術館、三輪健仁と共同キュレーション)、など。おもな論考に「麗子はどこにいる?―岸田劉生 1914-1918の肖像画」など。
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